コロンビア大学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 10:26 UTC 版)
「ジョン・デューイ」の記事における「コロンビア大学時代」の解説
1904年からはニューヨークのコロンビア大学で哲学教授となり、晩年まで50年近く務める。デューイはコロンビア大学で、哲学者としても教育学者としても精力的に研究・執筆活動を行い、名実共にアメリカの哲学界・教育界の第一人者となった。1905年にはアメリカ哲学会会長就任。また歴史家チャールズ・ビアード、経済学者ソースティン・ヴェブレンとジェームズ・ハーベイ・ロビンソン(英語版)らとともに、ニュースクール(のちニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ)を創設する。 1916年には『民主主義と教育(英語版)』「Essays in Experimental Logic(実験論理学論考)」を発表。1919年から1921年にかけて日本と中国を訪れ、中国では長期滞在した。 1922年には『人間的自然と行為』を発表。1924年にはトルコに招へい。1925年、デューイの最も形而上学的省察といわれる『経験と自然』を発表。1926年、メキシコに招聘。1927年にはウォルター・リップマンの『幻の公衆』への応答として書かれ、民主主義を擁護した『公衆とその問題』を発表。 1928年にはソビエト連邦を訪れる。ソ連でデューイの教育理論が受け入れられたため視察に向かったのである。 1929年、世界恐慌が起きる。第一次世界大戦後の1920年代はアメリカの永久の繁栄が謳歌されていた時代であったが、それが崩壊する契機となる。危機の時代のなかで、1931年には『個人主義』を発表する。また1930年代には、教育予算が削減され、数々の学校が閉鎖したり教員が人員整理されたりした。これを受けてデューイも自身の教育理論を反省的に練り直すことになる。1933年にはチャイルズとの共著『経済状態と教育』を発表する。 1934年には『経験としての芸術』と宗教論である『誰でもの信仰(英語版)』を発表する。1935年の『自由主義と社会的行動』などにおいて、伝統的な個人主義は、社会の集合状態に応じて、不断に計画(プランニング)し更新していくような実験的・協同的な思考と方法にまで再構成されるべきであると主張する。のちこの「実験主義」は『論理学:探究の理論』で一般理論化される。これらのデューイの思想は、1933年からのニューディール政策に対応したもので、フランクリン・D・ルーズヴェルトの「プランニングにおける政府と産業との協同体制」と反響したものだった。 1938年には、『論理学:探究の理論』、1939年にはファシズムの起源について論じた『自由と文化』、1949年にはトランスアクションの概念を論じた『知ることと知られたもの』を発表した。
※この「コロンビア大学時代」の解説は、「ジョン・デューイ」の解説の一部です。
「コロンビア大学時代」を含む「ジョン・デューイ」の記事については、「ジョン・デューイ」の概要を参照ください。
- コロンビア大学時代のページへのリンク