ゲリラ戦と飢餓と疫病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 21:52 UTC 版)
「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事における「ゲリラ戦と飢餓と疫病」の解説
ゴールウェイの陥落はクロムウェルの侵略に対する組織的抵抗の終結を表していたが、議会派に対して小規模のアイルランド人部隊がゲリラ戦を開始したため戦いは続いた。 ゲリラ戦への移行は1650年後半から始まっており、1651年にアイルランド人と国王派の連合軍が敗北したにもかかわらず、議会派に対抗する兵士はまだ30,000人ほどいると推測された。トーリー(Tories。アイルランド語の単語tóraidheから「ならず者」の意)はアレン湿地帯やウィックロー山地、そしてドラムリン(英語版)といった移動の難所から数か月内で活動し、議会派は大規模行軍を除いては極めて危険な状態になった。アイアトンは1650年にトーリーを鎮圧するためウィックロー山地へ征討を行うが、成功しなかった。 1651年前半には、イングランドの輜重隊は軍事拠点から2マイル以上行軍する場合安全ではなかったと報告された。それにこたえて、議会派軍はトーリーを支援していると考えられた一般人を強制的に追い立て、食糧供給源を破壊した。ジョン・ヒューソン(英語版)はウィックロー県とキルデア県で組織的に食糧備蓄を破壊し、ハードレス・ウォーラー(英語版)もクレア県のバレン(Burren)で同様に、クック大佐もウェックスフォード県で同じことを行った。その結果、アイルランドのあちこちで飢饉が発生、腺ペストの流行が状況をさらに悪化させた。 ゲリラ戦が長く続いたため、議会派は1651年4月付でウィックロー県や多くの南部県を今の言葉でいう無差別砲撃地帯(英語版)とし、見つけたら誰でも「敵として殺害、滅ぼし、さらに彼らの家畜や資産は敵の持ち物として取るか奪うかすべし(taken slain and destroyed as enemies and their cattle and good shall be taken or spoiled as the goods of enemies)」とした。この戦術は1603年に終結した9年戦争(英語版)でも効果的であった。加えて捕虜を年季奉公人として西インド諸島 (特にバルバドスなど。バルバドスではその子孫はレッドレッグ(英語版)と呼ばれた) に売り払うことも始まり、イングランド共和体制のもと合計12,000人が奴隷として売り払われた。 戦争のこの時期は一般市民の犠牲が大きく、戦争、飢饉、そして疫病の組み合わせはアイルランドの住民に莫大な死者を出した。ウィリアム・ペティは1641年以来のアイルランドにおける犠牲者数を618,000人以上、もしくは戦前の人口の40%と見積もった(ダウン・サーヴェイ(英語版)より)。このうち400,000人はカトリック教徒で、167,000人は戦争や飢餓で直接的に殺され、残りは戦争に関連する疫病で死亡したと見積もった。 結局、ゲリラ戦は議会派が1652年に降伏条約を発表すると終結した。これはアイルランド軍が、イングランド共和国との戦争で戦わないという条件付きで、外国へ渡り軍に加わることを許可したものであり、ほとんどはフランスもしくはスペインに渡った。ジョン・フィッツパトリック(John Fitzpatrick。ラインスター)、エドマンド・オドワイアー(Edmund O'Dwyer。マンスター)、エドマンド・デイリー(Edmund Daly。コノート)といった最大規模のアイルランドゲリラ軍はその年の5月にキルケニーで調印された条約により降伏したが、同年の終わりにも、11,000人ほどがまだ地域(大部分はアルスター)に存在していると考えられていた。 最後のアイルランドと国王派の連合軍(フィリップ・オライリーに率いられていたアルスターのカトリック連合の生き残り)は1653年4月27日、キャバン県Cloughoughterにおいて正式に降伏した。しかし、小規模のゲリラ戦はその後10年あまり続き、広範囲に無法地帯が広がり強盗団がはびこることになった。トーリーの一部がただの強盗団(アウトロー)であったことは疑いがないが、一方で他のトーリーには政治的な動機があった。
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