グルンヴァルトの戦いとは? わかりやすく解説

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グルンヴァルトの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:07 UTC 版)

ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争」の記事における「グルンヴァルトの戦い」の解説

1410年7月15日グルンヴァルトタンネンベルクステンバルク)、ルートヴィヒスドルフ(ウォドヴィゴヴォ)といった々の間で、グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)が発生した現代の歴史家の推計では、ポーランド・リトアニア軍は1万6500人から39000人、ドイツ騎士団1万1000人から2万7000人の兵力擁していた。ポーランド・リトアニア軍を構成する人々民族的に宗教的に多様で、カトリック教徒ポーランド軍リトアニア軍隣り合って異教徒ジェマイティヤ人正教徒ルーシ人ムスリムタタール人戦った。なお。22人の人々大半ドイツ系)がドイツ騎士団側について戦っている。 ドイツ騎士団側は敵を挑発して攻撃させるために、「ヨガイラヴィータウタス戦場助けるように」と言っていわゆるグルンヴァルト双剣送り付けた。最初にリトアニア軍攻撃仕掛けたものの、1時間以上にわたる激し戦闘の末、リトアニア軍が総退却始めた。これが作戦通り偽装撤退だったのか、それとも本当に敗走していたのかは現在でも議論続いている。その後ポーランド軍衝突したドイツ騎士団は、ヨガイラ本営にまで迫った。ある騎士ヨガイラ本人ところにまで至ったが、王の側近ズビグニェフ・オレシニツキに防がれた。次第ポーランド軍盛り返してくると、戦場離脱していたリトアニア軍戻ってきた。騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンは、リトアニア軍戦列突破しようとしたが戦死した指揮官失い包囲されドイツ騎士団は、陣営戻ってウォーワゴンによる守り固めるために撤退し始めたが、この防衛体制瞬く間破られドイツ騎士団の陣は蹂躙され戦場死んだ騎士上の数のドイツ騎士団員がここで殺害された。 ドイツ騎士団8000人の戦士戦死し、14000人が捕虜となった。ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンをはじめ、ドイツ騎士団中心人物もほとんどがこの戦いで死んだ。ヴェルナー・フォン・テッティンガーら残った首脳部エルビング(現エルブロンク)のコマンドリー逃れたその後1410年11月11日クラクフ行われた戦闘の後一般兵傭兵捕虜のほとんどは解放された。しかし、貴族留め置かれドイツ騎士団それぞれ高額な身代金要求された。

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グルンヴァルトの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:34 UTC 版)

グルンヴァルトの剣」の記事における「グルンヴァルトの戦い」の解説

「グルンヴァルトの戦い」も参照 ドイツ騎士団使者たちの紋章復元図 グルンヴァルトの戦いは、1409年から1411年にかけて、ヴワディスワフ2世ヴィータウタス率いポーランド・リトアニア連合軍と、ウルリッヒ・フォン・ユンキンゲン率いドイツ騎士団西欧騎士たちが衝突した大戦争最大戦闘だった。この両国戦争決着をつけたグルンヴァルトの戦いは、中世ヨーロッパ全体見て最大級戦闘だった。 1410年7月15日朝、両軍戦闘への準備進めていた時、2人ドイツ騎士団使者ヴワディスワフ2世のもとを訪れ、2本の抜身の剣を差し出したヤン・ドゥウゴシュ年代記によれば、彼らは金地に黒というドイツ王ジギスムント紋章銀地に赤いグリフィンというポンメルン公カジミール4世紋章をつけており、いずれも騎士団総長使者であることを示していた。使者たちはヴワディスワフ2世ヴィータウタス2人への面会求めたが、ヴィータウタス自軍準備忙しかったため、ヴワディスワフ2世副官連れて接見した使者たちはドイツ語で話をしたので、国王秘書ヤン・メンジクが通訳をした。ドゥウゴシュによれば使者たちの語るところは次のようなものであった陛下総長ウルリク(ウルリッヒ・フォン・ユンキンゲン)は、あなたとあなたの兄弟に……私たち、ここにおります使者を介して2本の剣をお贈りなりました。あなたが兄弟やその軍勢とともにこれまでのあなた方行動ほどぐずぐずすることなくはるかに勇敢に戦えるように、またあなたがこれ以上木立隠れ続けたり、戦闘遅らせたりないようにです。そしてもし、あなたがご自身の軍列を並べる場所が足りないとお考えでしたら、プロイセン総長ウルリクあなたがた戦場へ招き入れるため、占領した平原からあなたが望むところまで軍勢引き揚げましょう。あるいは、どこか別の好きな戦場を選ぶこともできます。あなたがこれ以上戦闘を引き延ばさないために。 —ドイツ騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンキンゲンの使者ヤン・ドゥウゴシュ年代記より 彼らの言う通りドイツ騎士団軍勢は元居た場所から少し引き下がったヴワディスワフ2世は剣を受け取り、後に彼が妻アンナ・ツィレイスカ書き送ったところによれば、次のように語った我らあなた方贈ってきた剣を受け入れ、そしていかなる頑固な自尊心も首(こうべ)を垂れるべきキリストの名の下に、必ず戦い赴く。 —ヴワディスワフ2世アンナ・ツィレイスカへの書簡より 当時慣習として、公式に敵に戦闘挑むしるしとして剣を贈る行為はあたりまえであったが、ことばでの侮辱加えることはそうではなかった。それだけに、ドイツ騎士団員の言葉極めて高慢厚かましいものに聞こえた。後にボヘミア宗教改革ヤン・フスは、ヴワディスワフ2世グルンヴァルト戦勝を「高慢な者に対す謙虚な者の勝利」として称える書簡送っている。 敵の2本の剣は、いったい今どこにあるのでしょう? 彼らはまさに、謙虚な心を脅かすために使おうとしたその剣によって斬り倒されたのです! 見なさい、彼らはあなたに2本の剣を、暴力自惚れの剣を贈り、そして完全な敗北によって何千もの兵を失ったのです。 —ヤン・フスヴワディスワフ2世への書簡より、1411年

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