決戦と城の攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 20:16 UTC 版)
ついに1410年、ドイツ騎士団に支配されていた地方のグルンヴァルト(ドイツ名:グリューンフェルデ)村とステンバルク(ドイツ名:タンネンベルク)村の間の草原で、ドイツ騎士団とポーランド・リトアニア連合軍の決戦が行われた。このグルンヴァルトの戦い(ドイツ名:タンネンベルクの戦い)ではポーランド・リトアニア連合の軍が決定的勝利を収め、ドイツ騎士団総長ウルリヒ・フォン・ユルギンゲンは合戦中に農民兵によって殺害され、ドイツ騎士団の高位の者もほとんどがここで命を落した。敗走した騎士団員は、ハインリヒ・フォン・プラウエンを新総長とし、ドイツ騎士団の防衛の要であったマリーエンブルク城に立て篭もった。[要出典] ポーランド・リトアニア連合軍はそのままマリーエンブルク城を包囲し兵糧攻めを開始したが、まもなく秋となった。ポーランド・リトアニア側は作物の収穫のため農民兵を解散せざるを得なくなり、この攻城戦の決着はつかなかった[要出典]。その後、第一次トルニの和約がポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団との間で締結され、ドイツ騎士団領はポーランド王の支配下に入った。マリーエンブルク城はドイツ騎士団の居城として認められた。
※この「決戦と城の攻防」の解説は、「マルボルク城」の解説の一部です。
「決戦と城の攻防」を含む「マルボルク城」の記事については、「マルボルク城」の概要を参照ください。
- 決戦と城の攻防のページへのリンク