クラッススとアントニウスとの戦いとは? わかりやすく解説

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クラッススとアントニウスとの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)

パルティア」の記事における「クラッススとアントニウスとの戦い」の解説

プラアテス3世息子オロデス2世(ウロード2世在位:前57年頃-前37年頃)とミトラダテス3世(ミフルダート3世在位:前57年頃-前55年)によって暗殺された。その後すぐに二人の兄弟は争い始め敗れたミトラダテス3世メディアからローマシリアへと逃げ込んだ。彼はローマシリア属州総督プロコンスルアウルス・ガビニウス支援得たが、プトレマイオス朝エジプト)の王プトレマイオス12世在位:前80年-前58年、前55年-前51年)が多額謝礼金積んで反乱の鎮圧支援ガビニウス依頼すると、ガビニウスエジプト転身したミトラダテス3世ローマあてにならないことを悟ると自力での再起目論んで故国へと戻った。彼は当初バビロニア征服成功し、前55年までセレウキアコイン発行している。この年オロデス2世将軍セレウキアを再占領しミトラダテス3世処刑された。この将軍の名前はスレナス(スーレーン氏族の者の意)という彼の出身氏族名でのみ知られている。 新たにローマシリア属州総督プロコンスル)となり、三頭政治一角でもあったマルクス・リキニウス・クラッススは、前53年遅ればせながらミトラダテス3世支援のためパルティアへの侵攻開始した。彼がカルラエ(現:トルコ南東部ハッラーン)に進軍した時、オロデス2世シリアスレナス任せローマ同盟者であったアルメニア王アルタヴァスデス2世在位:前53年-前34年)とローマの間を断ち切るべくアルメニア進軍した。そしてアルタヴァスデス2世に、パルティア王太子パコルス1世(前38年死去)とアルタヴァスデス2世姉妹との婚姻同盟を結ぶように説得した一方スレナス軍勢カルラエで4倍もの数を誇ったクラッススローマ軍撃破しパルティア威信高めたカルラエの戦い)。敗れたクラッスス講和の席で部下によって殺害された。 カルラエにおけるクラッスス敗北は、ローマにとっては史上最も大きな軍事上の敗北一つである。パルティアローマ同等勢力というまでではないにせよ、勝利によってその威信強固なものとした。従卒捕虜貴重なローマ戦利品携えてスレナスセレウキアまで700キロメートル道のり凱旋し勝利を祝った。だが、王位対すスレナス野心恐れたオロデス2世は、この後間もなくスレナス処刑したクラッスス対す勝利勢いづいたパルティア西アジアにおけるローマ領の奪取試みた王太子パコルス1世彼の将軍オサケスはシリア襲撃し、前51年にはアンティオキアまで達した。しかし、彼らはガイウス・カッシウス・ロンギヌス撃退され、その待ち伏せによりオサケスが殺害された。前49年以降ポンペイウスユリウス・カエサル戦ったローマの内戦ではパルティアポンペイウス側に味方したポンペイウスカエサル敗れカエサルローマで独裁的な権力握ったが、彼は前44年暗殺された。その後フィリッピの戦い(前42年)の際にはブルトゥスカッシウスたちは、カエサル後継者オクタウィアヌス対抗するための援軍パルティア求めたブルトゥスらの敗死によってこの援軍実現しなかったが、この時使者としてパルティア派遣されクィントゥス・ラビエヌスは、前40年パルティア軍の司令官パコルス1世随伴してローマシリア侵攻した三頭政治一角マルクス・アントニウスイタリアへ進発するためにパルティア軍からのローマ防衛指揮することができなかった。シリアパコルス1世軍勢占領された後、ラビエヌスパルティア軍の主力一部率いてアナトリア侵攻しパコルス1世とその将軍バルザファルネス(英語版)がローマ領のレヴァント地方侵攻したラビエヌスアナトリアのほぼ全ての都市占領しパコルス1世地中海海岸沿って、南はプトレマイス(現:イスラエルアッコ)に至る全ての都市を、ティルス市を除いて制圧した。ユダエア(ユダヤ)では、親パルティア派のアンティゴノス2世マッタティアス(在位:前40年-前37年率いユダヤ人が、パルティアと共にローマ派の大祭司ヨハネ・ヒュルカノス2世、ファサエル(英語版)、そしてヘロデらの指揮するユダヤ人打ち破ったアンティゴノス2世マッタティアスはユダエアの王となり、ヘロデマサダの砦へと逃亡した。 しかし、パルティア間もなくローマの反撃によってレヴァント地方から放逐された。マルクス・アントニウス部下プブリウス・ウェンティディウス・バッススは、前39年キリキア門の戦い英語版)(現:トルコ領メルシン県)でラビエヌス破ってこれを処刑したその後すぐに、ファルナパテス率いシリアパルティア軍もアマヌス街道戦い英語版)でウェンティディウスによって打ち破られた。この結果パコルス1世一時的にシリアから撤退した。彼は前38年春に再びシリア入りアンティオキア北東にあるギンダロス山の戦い英語版)でウェンティディウスに相対したパコルス1世はこの戦い最中戦死しパルティア軍はユーフラテス川渡って後退した彼の死は老齢オロデス2世にとり重大な痛手であったであろう。彼はパコルス1世代わる新たな後継者としてプラアテス4世(フラハート4世在位:前38年-前2年頃)を選んだ。 しかしプラアテス4世間もなく父親殺害し即位直後には兄弟たち殺害すると共に数多くパルティア貴族追放した。彼らのうちの一人、モナエセスはローマアントニウスの下へ逃げ彼にパルティア侵攻英語版)するように説得した状況有利と見たアントニウスパルティアへの侵攻決意したアントニウスユダヤパルティア同盟者アンティゴノス2世を前37年打倒しヘロデを属王としてユダヤの王に据えた翌年アントニウスアルメニアエルズルム市に進軍しアルメニア王アルタヴァスデス2世ローマとの同盟強要したアントニウスパルティア同盟結んだメディア・アトロパテネ(現:イランアーザルバーイジャーン)の王、アルタヴァスデス1世英語版)を攻撃した目的は現在では位置不明となっているその首都、プラースパを占領することであった。しかし、プラアテス4世アントニウス軍の後方襲って孤立化させ、プラースパ包囲撃退したアルメニア王アルタヴァスデス2世戦闘前後アントニウスの軍を見限って逃亡していた。パルティアアントニウス軍をアルメニアへの撤退追い込むことに成功し退却路で更なる襲撃続けた大きな損害受けたローマ軍最終的にシリアへと帰還したこの後アントニウスローマ軍敗北の原因作ったアルタヴァスデス2世を罠に誘いこみ、前34年にこれを捕縛しローマ送った処刑したアントニウスアルメニア平定し、プラアテス4世とメディア・アトロパテネ王アルタヴァスデス1世の関係が悪化すると、アルタヴァスデス1世との同盟試みた。しかしアントニウスオクタウィアヌスとの内戦備えなければならず、この企ては前33年アントニウス彼の軍勢アルメニアから撤退した時に放棄された。前31年アントニウスオクタウィアヌス敗れエジプト自殺する前後パルティア結んだアルタクシアス2世英語版)がアルメニア王位を得た

※この「クラッススとアントニウスとの戦い」の解説は、「パルティア」の解説の一部です。
「クラッススとアントニウスとの戦い」を含む「パルティア」の記事については、「パルティア」の概要を参照ください。

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