クラッススとアントニウスとの戦い
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「パルティア」の記事における「クラッススとアントニウスとの戦い」の解説
プラアテス3世は息子のオロデス2世(ウロード2世、在位:前57年頃-前37年頃)とミトラダテス3世(ミフルダート3世、在位:前57年頃-前55年)によって暗殺された。その後すぐに二人の兄弟は争いを始め、敗れたミトラダテス3世はメディアからローマ領シリアへと逃げ込んだ。彼はローマのシリア属州総督(プロコンスル)アウルス・ガビニウスの支援を得たが、プトレマイオス朝(エジプト)の王プトレマイオス12世(在位:前80年-前58年、前55年-前51年)が多額の謝礼金を積んで反乱の鎮圧支援をガビニウスに依頼すると、ガビニウスはエジプトへ転身した。ミトラダテス3世はローマがあてにならないことを悟ると自力での再起を目論んで故国へと戻った。彼は当初バビロニアの征服に成功し、前55年までセレウキアでコインを発行している。この年、オロデス2世の将軍がセレウキアを再占領し、ミトラダテス3世は処刑された。この将軍の名前はスレナス(スーレーン氏族の者の意)という彼の出身氏族名でのみ知られている。 新たにローマのシリアの属州総督(プロコンスル)となり、三頭政治の一角でもあったマルクス・リキニウス・クラッススは、前53年に遅ればせながらミトラダテス3世の支援のためパルティアへの侵攻を開始した。彼がカルラエ(現:トルコ南東部、ハッラーン)に進軍した時、オロデス2世はシリアをスレナスに任せ、ローマの同盟者であったアルメニア王アルタヴァスデス2世(在位:前53年-前34年)とローマの間を断ち切るべくアルメニアへ進軍した。そしてアルタヴァスデス2世に、パルティアの王太子パコルス1世(前38年死去)とアルタヴァスデス2世の姉妹との婚姻同盟を結ぶように説得した。一方、スレナスの軍勢はカルラエで4倍もの数を誇ったクラッススのローマ軍を撃破してパルティアの威信を高めた(カルラエの戦い)。敗れたクラッススは講和の席で部下によって殺害された。 カルラエにおけるクラッススの敗北は、ローマにとっては史上最も大きな軍事上の敗北の一つである。パルティアはローマと同等の勢力というまでではないにせよ、勝利によってその威信を強固なものとした。従卒や捕虜、貴重なローマの戦利品を携えて、スレナスはセレウキアまで700キロメートルの道のりを凱旋し勝利を祝った。だが、王位に対するスレナスの野心を恐れたオロデス2世は、この後間もなくスレナスを処刑した。 クラッススに対する勝利で勢いづいたパルティアは西アジアにおけるローマ領の奪取を試みた。王太子パコルス1世と彼の将軍オサケスはシリアを襲撃し、前51年にはアンティオキアまで達した。しかし、彼らはガイウス・カッシウス・ロンギヌスに撃退され、その待ち伏せによりオサケスが殺害された。前49年以降、ポンペイウスがユリウス・カエサルと戦ったローマの内戦ではパルティアはポンペイウス側に味方した。ポンペイウスはカエサルに敗れ、カエサルがローマで独裁的な権力を握ったが、彼は前44年に暗殺された。その後のフィリッピの戦い(前42年)の際にはブルトゥスとカッシウスたちは、カエサルの後継者オクタウィアヌスに対抗するための援軍をパルティアに求めた。ブルトゥスらの敗死によってこの援軍は実現しなかったが、この時使者としてパルティアに派遣されたクィントゥス・ラビエヌスは、前40年にパルティア軍の司令官パコルス1世に随伴してローマ領シリアに侵攻した。三頭政治の一角、マルクス・アントニウスはイタリアへ進発するためにパルティア軍からのローマ領防衛を指揮することができなかった。シリアがパコルス1世の軍勢に占領された後、ラビエヌスはパルティア軍の主力の一部を率いてアナトリアに侵攻し、パコルス1世とその将軍バルザファルネス(英語版)がローマ領のレヴァント地方へ侵攻した。ラビエヌスはアナトリアのほぼ全ての都市を占領し、パコルス1世は地中海の海岸に沿って、南はプトレマイス(現:イスラエル領アッコ)に至る全ての都市を、ティルス市を除いて制圧した。ユダエア(ユダヤ)では、親パルティア派のアンティゴノス2世マッタティアス(在位:前40年-前37年)率いるユダヤ人が、パルティア軍と共に、ローマ派の大祭司ヨハネ・ヒュルカノス2世、ファサエル(英語版)、そしてヘロデらの指揮するユダヤ人を打ち破った。アンティゴノス2世マッタティアスはユダエアの王となり、ヘロデはマサダの砦へと逃亡した。 しかし、パルティアは間もなくローマの反撃によってレヴァント地方から放逐された。マルクス・アントニウスの部下プブリウス・ウェンティディウス・バッススは、前39年にキリキア門の戦い(英語版)(現:トルコ領メルシン県)でラビエヌスを破ってこれを処刑した。その後すぐに、ファルナパテス率いるシリアのパルティア軍もアマヌス街道の戦い(英語版)でウェンティディウスによって打ち破られた。この結果、パコルス1世は一時的にシリアから撤退した。彼は前38年の春に再びシリアに入り、アンティオキアの北東にあるギンダロス山の戦い(英語版)でウェンティディウスに相対した。パコルス1世はこの戦いの最中戦死し、パルティア軍はユーフラテス川を渡って後退した。彼の死は老齢のオロデス2世にとり重大な痛手であったであろう。彼はパコルス1世に代わる新たな後継者としてプラアテス4世(フラハート4世、在位:前38年-前2年頃)を選んだ。 しかしプラアテス4世は間もなく父親を殺害し、即位直後には兄弟たちを殺害すると共に、数多くのパルティア貴族を追放した。彼らのうちの一人、モナエセスはローマのアントニウスの下へ逃げ、彼にパルティアへ侵攻(英語版)するように説得した。状況有利と見たアントニウスはパルティアへの侵攻を決意した。アントニウスはユダヤのパルティア同盟者アンティゴノス2世を前37年に打倒し、ヘロデを属王としてユダヤの王に据えた。翌年、アントニウスはアルメニアのエルズルム市に進軍し、アルメニア王アルタヴァスデス2世にローマとの同盟を強要した。アントニウスはパルティアと同盟を結んだメディア・アトロパテネ(現:イラン、アーザルバーイジャーン)の王、アルタヴァスデス1世(英語版)を攻撃した。目的は現在では位置不明となっているその首都、プラースパを占領することであった。しかし、プラアテス4世はアントニウス軍の後方を襲って孤立化させ、プラースパ包囲も撃退した。アルメニア王アルタヴァスデス2世は戦闘の前後にアントニウスの軍を見限って逃亡していた。パルティアはアントニウス軍をアルメニアへの撤退に追い込むことに成功し、退却路で更なる襲撃を続けた。大きな損害を受けたローマ軍は最終的にシリアへと帰還した。この後、アントニウスはローマ軍敗北の原因を作ったアルタヴァスデス2世を罠に誘いこみ、前34年にこれを捕縛してローマに送った後処刑した。アントニウスはアルメニアを平定し、プラアテス4世とメディア・アトロパテネ王アルタヴァスデス1世の関係が悪化すると、アルタヴァスデス1世との同盟を試みた。しかしアントニウスはオクタウィアヌスとの内戦に備えなければならず、この企ては前33年にアントニウスと彼の軍勢がアルメニアから撤退した時に放棄された。前31年にアントニウスがオクタウィアヌスに敗れエジプトで自殺する前後、パルティアと結んだアルタクシアス2世(英語版)がアルメニア王位を得た。
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