クラッススへの指揮権授与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:11 UTC 版)
「第三次奴隷戦争」の記事における「クラッススへの指揮権授与」の解説
紀元前71年の執政官に選挙されたレントゥルス・スラ(英語版)とオレステスは軍事的に無能な人物であり、代わりに反乱鎮圧の責任を負わされる法務官の選挙に誰も立候補しようとしない事態に陥っていた。 元老院はイタリア本土で起こった抑止しえない反乱に恐れをなし、鎮圧の任をマルクス・リキニウス・クラッススに委ねることにした。クラッススはローマの政界において既に名をなした人物であり、軍事面でも紀元前82年にスッラとマリウスとの間で起こった内戦 (英語版) の際に野戦軍を指揮しており、独裁官時代のスッラに従っていた。 法務官に選出されたクラッススにはプロコンスルとして最高司令官の地位を与えられて、レントゥルスとゲッリウスの両前執政官の軍団に加えて新たに6個軍団が配され、彼の軍隊は訓練を受けたローマ兵4万から5万となった。クラッススは自らの軍団兵に厳格かつ残忍な規律を加え、十分の一刑を復活させた。アッピアノスは前執政官の2個軍団の指揮権をクラッススが引き継いだ際に彼らの臆病を責めてこの刑を科したのか、その後の敗戦の際に全軍団に対して科したのか明らかにしていないが、4千人以上の軍団兵が処刑されたとしている。 これに対してプルタルコスはスパルタクスとの最初の交戦となった副将ムンミウスの指揮下での敗北に際して1個歩兵隊の50人の軍団兵にこの刑を科したとしている。実際はいずれかだったかはともかく、クラッススが軍団兵にこの扱いをなした目的は「兵たちにとって彼が敵よりも危険である」と思わせることであり、指揮官によって不名誉な死に処される危険にさらされるよりはと、勝利に向かって駆り立てることであった。 スパルタクスの軍勢が再び北上しはじめると、クラッススは地方の境界に6個軍団を配置させ(プルタルコスは最初の戦闘はピセヌム地方で起こったとし、アッピアノスはサムニウム地方だったとしている)、そして、副将のムンミウスが指揮する2個軍団をスパルタクスの背後に回り込ませたが、彼らには交戦せぬよう命じていた。だが、いざスパルタクス軍を前にするとムンミウスは命令に従わずに戦い、そして敗走した。この失敗にもかかわらずクラッススはスパルタクスと戦って打ち破り、6千人を殺害した。 戦争の潮目が変わり始めた。クラッススの軍団は幾つかの戦闘で勝利して数千人の反乱奴隷を殺し、スパルタクスを南へと後退させルカニア地方を通り、メッサナ海峡対岸部、イタリア半島最南端のカラブリア地方の都市レギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)にまで追い込んだ。プルタルコスによれば、スパルタクスはキリキア海賊と2千人の兵士をシキリア島へ運ぶ取引を行い、この地で再び奴隷の反乱を起こさせ増援を得ることを図ったと云う。だが、海賊たちは彼を裏切り、報酬を受け取ったにもかかわらず、反乱奴隷を見捨てて姿を現さなかった。幾つかの史料によれば、奴隷軍が脱出のための筏を造ろうとしたが、クラッススは何らかの手段によってこれを妨害して海峡を越えさせなかったため、スパルタクスたちは諦めたと云う。 スパルタクスの軍はレギウムへと退却した。クラッススの軍団はこれを追撃し、地峡にまたがる長城を建設し始め、阻止しようとする奴隷軍の襲撃を撃退して完成させた。奴隷軍は包囲され、補給を絶たれた。
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