エルスワースの裁判およびその後の人生
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「オリバー・エルスワース」の記事における「エルスワースの裁判およびその後の人生」の解説
1796年春、エルスワースはアメリカ合衆国最高裁判所主席判事に指名されたが、その任期は短く、1800年にその後継者となったジョン・マーシャルの業績によって見劣りさせられている。 エルスワースは1796年アメリカ合衆国大統領選挙で候補者となり、選挙人選挙ではニューハンプシャー州とロードアイランド州の大半である11票を獲得して、大統領に選ばれたジョン・アダムズとは対照をなした。 エルスワースは1799年から1800年に掛けて、フランスへの代表団を率い、ナポレオン政府と合衆国艦船の制限に関する観点の食い違いを収めようとした。これを放っておくと2国間の軍事紛争に発展する可能性があった。エルスワースがまとめた同意事項は、ナポレオンに対して寛大すぎるとしてアメリカ人の間に不満を呼んだ。さらに、エルスワースは大西洋を渡る旅が原因で重病に罹り、また連邦党は混迷に陥り、ジェファーソンが率いる民主共和党に簡単に破られた。その結果、1801年早くにアメリカに戻ると共に、国の公的な生活から引退した。それでもコネチカット州では知事の委員会委員を再度務め、その死の1807年まで続けた。ウィンザーの第一教会墓地に埋葬されている。全く憶測に過ぎないことかもしれないが、ナポレオンとの懐柔的な交渉によって、交渉から3年後にルイジアナ植民地を合衆国に1,500万ドルで売却するという、ナポレオンの突然の選択に貢献した可能性があう。 振り返ってみると、エルスワースがアメリカ合衆国を成長可能な主権国家としてその建国に果たした役割は重要だったが、簡単に見過ごされうるものでもある。このことの理由としてかなりの部分は、エルスワースが演説家として特に傑出していたわけではなく、出来る限り表舞台には立たなかったことである。1788年1月のコネチカット州における合衆国憲法批准会議ではその雄弁さが他を圧倒したと言われるが、後にアメリカ合衆国上院多数派の事実上の指導者として、その議論は比較的短く要点を衝くようにしていたように見える。彼が書いた文章は時に複雑に入り組んでおり、司法権法第25節の有効な文(2文しかないうちの2つめ)がそれを良く表している。この文は300語以上の長さがあり、州裁判所がどのように連邦の権威に対応すべきかの説明として解釈することがほとんど不可能である。しかしおそらくは、この不明瞭性が意図的なものであり、第25節に規定される連邦権限の拡大は、司法権法の中で最も重要で議論を呼ぶ可能性があったにも拘わらず、上下院双方の議事でほとんど見過ごされた。 エルスワースが連邦政府を連合規約によって課された制限なしに統一された連邦として具現化したことは、合衆国の歴史の初めの数十年間、特に南北戦争前の南部で、その人気を強めた。1847年、南北戦争の13年前、ジョン・カルフーンは、合衆国に「この世で最悪かつ最も耐え難い政府を与える代わりに最良のもの」を与えた3人の建国の父(シャーマンとパターソンを含む)のうちの最初の一人としてエルスワースを持ち上げた。しかし、南北戦争以降の急速な工業化と連邦政府の集権化が政府の発端におけるエルスワースの画期的な功績をほとんど完全に無視させることになった。今日、エルスワースについて多くを知る人は少ない。1905年に出版され1970年に再版されたウィリアム・ギャロット・ブラウンによる全生涯の伝記は、秀逸ではあるが、今では手に入りにくい。 エルスワースの双子の息子は公的な業績で父を継いだ。ウィリアム・ウォルコット・エルスワースは、ノア・ウェブスターの娘と結婚し、コネチカット州知事になった。もう一人のヘンリー・リービット・エルスワースは、ハートフォード市長、続いて初代特許局長官、および後にイートナ生命保険の社長を務めた。ヘンリーは農務局の創設に影響力を及ぼし、アンドリュー・ジャクソン大統領からはいわゆる「涙の道」の監督官に指名された。これはジョージア州からオクラホマ州までチェロキー族インディアンを移住させるものであり、その過程で4,000人の命が失われた。ヘンリーは、発明家サミュエル・モールスの友人でもあり、その娘アニー・エルスワースはモールスが初めて送った電文「神は何を創り上げたか?」を提案した。
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