エピグラムと小説
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「ナタリー・クリフォード・バーネイ」の記事における「エピグラムと小説」の解説
『Éparpillements』(『四散したもの』1910年)はバーネイの最初の『パンセ』(「pensées」)--文字通りに思考--の最初の選集であった。この文学形式はサブレ伯爵夫人のサロンで完成された17世紀以来フランスにおけるサロン文化と関係があった。バーネイの『パンセ』は、サブレ自身の『格言集』と同様に、短く、しばしば一行のエピグラムすなわち「bon mot」(気の利いた言葉)であって、たとえば「悪い口よりも邪悪な耳が多い」、「結婚しているということは、ひとりでいることでも一緒にいることでもない」。 彼女が『Éparpillements』を一部、レミ・ド・グールモンに送ったのち、彼女の作家としてのキャリアは後押しをうけた。彼はフランスの詩人、文芸批評家、哲学者で、30歳代に美観を損なう疾病である尋常性狼瘡にかかったのち隠者になっていた。彼は、いつもは自宅で少人数の旧友のみを迎えていた日曜日の会合にバーネイを招待するほど心を動かされた。彼女は、彼の人生を若返らせるような影響を与える者となり、彼を説得して晩のドライブ、ジャコブ通りでの晩餐、仮面舞踏会、そしてセーヌ川での短い船旅にさえ連れ出した。彼は、広範囲にわたる会話のうちいくつかを『メルキュール・ド・フランス』で一連の手紙にして公表し、そこでバーネイをフランス語で女性の騎手をもアマゾーンをも意味し得る「l'Amazone」と呼んだ。その諸書簡はのちに単行本に集められた。彼は1915年に死去したが、彼が彼女につけたあだ名は、生涯、彼女とともに生きることになる--彼女の墓石すら、彼女を「レミ・ド・グールモンのアマゾン」としている--そして彼の『アマゾンへの手紙』は読者を、彼らに霊感を与えた女性に関してもっと知りたいままにしておいた。 バーネイは、1920年に最も公然と政治的な作品『Pensées d'une Amazone』(『アマゾンの思考』)を出版した。第1部「性的逆境、戦争およびフェミニズム」において、彼女はフェミニズムと平和主義を展開し、戦争を「男性によって定められる不随意的集団的自殺」と記述した。彼女は、戦争において男性たちは「女性が生命の母となるように、死の父となる」と言った。エピグラム的形式は、バーネイの見解の細部を決定することを困難にしている。思想は結局は抜け落ちているし、なかには相互に矛盾している「パンセ」もあるように思われる。批評家のなかには、彼女は、戦争に至る侵略は、すべての男性関係に見られると言っていると解釈するものもいる。しかしながらカーラ・ジェイは、彼女の哲学はそれほど広範囲なものではないし、「戦争を『愛する』人々は、適切な気晴らしの愛を--生活の技術を--欠いている」というエピグラムによく要約されていると主張する。 『Pensées d'une Amazone』の別の部分「誤解、あるいはサッポーの訴訟」は、同性愛に関する歴史的文書を、彼女自身の注釈とともに集めた。また彼女は、「小説は人生よりも長い」そして「ロマン主義は幼年時代の病気である。若くしてこれにかかる人々は最も強壮である」と書いて、アルコールや友情、老年、文学のような論題を取り扱った。第3巻『Nouvelles Pensées de l'Amazone』(『アマゾンの新思考』)は1939年に出版された。 『The One Who is Legion, or A.D.'s After-Life』(1930年)は、バーネイのただ一つの小説であるうえに、全文英語で書かれたただ一つの本であった。これはロメイン・ブルックスの挿絵入りで、A.D.としか知れない自殺者に関係するが、彼女は半陰陽的存在として生き返らせられ、彼女自身の人生の書を読む。この書物内書物は『A.D.の恋愛遍歴』という題名で、バーネイ自身の著作とほぼ同じように、賛歌や詩作品、エピグラムの選集である。
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