エステルハージ家での仕事
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「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の記事における「エステルハージ家での仕事」の解説
モルツィン伯は経済的に苦しい状況になり、ハイドンは解雇されてしまったが、すぐに1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長という仕事を得た。エステルハージ家の当主パウル・アントンen:Paul II Anton Esterházy(パール・アンタルhu:Esterházy Pál Antal (1711–1762))公はハイドンが雇用されて1年もたたずに没し、ハイドンはその弟のニコラウス公に仕えることになった。当時のエステルハージ家の楽団は全員で14人しかいなかったが(楽長・副楽長を除く)、ハイドンは楽団の拡充につとめるとともに副楽長時代に約26曲の交響曲を作曲した。中でも、三部作(第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『夕(晩)』)や第31番『ホルン信号』などはこの時期に作曲された。なお、1763年に父が没し、ハイドンは弟のヨハンを引き取っている。ヨハンはエステルハージ家でテノール歌手をつとめた。 老齢だった楽長のグレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナー(Gregor Joseph Werner)が1766年に死去した後、ハイドンは楽長に昇進した。 エステルハージ家の邸宅はハンガリー西部のアイゼンシュタット(現在はオーストリアのブルゲンラント州の州都)にあったが、ニコラウス公はノイジードル湖近くに豪華なエステルハーザ(Eszterháza、現在はハンガリーのフェルテード(英語版))を建設し、1760年代後半から冬を除く1年の大部分をここで過ごすようになった。ハイドンを含む楽員もそれに合わせてエステルハーザに住む必要があった。エステルハーザにはオペラ劇場とマリオネット劇場が落成したが、オペラ歌手との契約や新作の作曲、マリオネット劇ほかの劇音楽の作曲もハイドンの仕事だった。 彼は30年近くもの間エステルハージ家で働き、数多くの作品を作曲した。1760年代後半から1770年代はじめにかけて、ハイドンは短調を多用し、実験的ともいえる多彩な技法を駆使する一時期があり、20世紀はじめの音楽学者ヴィゼヴァ(Téodor de Wyzewa)は1772年にハイドンの「(ロマン的)危機」があったと考えた。後に時期を広げて1768年から1773年頃をハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」期と呼ぶようになった。交響曲第26番、第35番、第38番『こだま(エコー)』~第52番(第40番を除く)、第58番、第59番『火事』、第65番や、作品9、作品17、作品20の弦楽四重奏曲(中でも作品20の『太陽四重奏曲』は短調の曲を2曲含み、最終楽章にフーガを用いるなど対位法的に複雑な性質を持つ)、ピアノソナタ第20番(ランドン版では第33番)などがこの時代に属する。1770年代後半になるとより簡明な作風に変化した。 1780年ごろにはエステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率が増していった。この時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調(Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品がまとめて書かれた。またハイドンはウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版した。1785年から翌年にかけてはフランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)を作曲したが、これはエステルハージ家以外の楽団のために書かれた最初の交響曲だった。1785年にはスペインからの注文によって、管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲やオラトリオに編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が作曲された。 グリージンガーによると、ハイドンは「侯爵が生きている限り、彼のもとを離れるわけにはいかなかった。」と述べており、長い間イギリスからの招待も断っていたという。また、ハイドンは次のようにも述べていたという。 侯爵は私の全ての作品に満足していた。私は承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ。私は世間から隔絶されていて、私の周りには行く手を惑わせたり邪魔したりする者は誰もいなかった。だから、私は独創的にならざるをえなかった。 1781年頃、ハイドンはモーツァルトと親しくなった。この2人は互いの技量に尊敬を抱き、モーツァルトが1791年に死去するまで友情は変わらず続いた。モーツァルトは1782年から1785年にかけて、6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を作曲し、ハイドンに献呈している。また後にハイドンは、モーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の進学(音楽留学)の世話をしている。
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