エステルハージ家での仕事とは? わかりやすく解説

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エステルハージ家での仕事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:28 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の記事における「エステルハージ家での仕事」の解説

モルツィン伯は経済的に苦し状況になり、ハイドン解雇されてしまったが、すぐに1761年西部ハンガリー有数の大貴族エステルハージ家の副楽長という仕事得たエステルハージ家当主パウル・アントンen:Paul II Anton Esterházy(パール・アンタルhu:Esterházy Pál Antal (1711–1762))公はハイドン雇用され1年もたたずに没しハイドンはその弟のニコラウス公に仕えることになった当時エステルハージ家楽団全員14人しかいなかったが(楽長・副楽長を除く)、ハイドン楽団拡充につとめるとともに楽長時代に約26曲の交響曲作曲した中でも三部作第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『夕(晩)』)や第31番『ホルン信号』などはこの時期作曲された。なお、1763年に父が没しハイドンは弟のヨハン引き取っている。ヨハンエステルハージ家テノール歌手つとめた老齢だった楽長グレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナー(Gregor Joseph Werner)が1766年死去した後、ハイドン楽長昇進したエステルハージ家邸宅ハンガリー西部アイゼンシュタット(現在はオーストリアブルゲンラント州州都にあったが、ニコラウス公はノイジードル湖近く豪華なエステルハーザ(Eszterháza、現在はハンガリーのフェルテード(英語版))を建設し1760年代後半から冬を除く1年大部分をここで過ごすようになったハイドンを含む楽員もそれに合わせてエステルハーザに住む必要があった。エステルハーザにはオペラ劇場マリオネット劇場落成したが、オペラ歌手との契約新作作曲マリオネット劇ほかの劇音楽作曲ハイドン仕事だった。 彼は30年近くもの間エステルハージ家働き数多く作品作曲した1760年代後半から1770年代はじめにかけて、ハイドン短調多用し実験的ともいえる多彩な技法を駆使する一時期があり、20世紀はじめ音楽学者ヴィゼヴァ(odor de Wyzewa)は1772年ハイドンの「(ロマン的)危機」があったと考えた。後に時期広げて1768年から1773年頃をハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング疾風怒濤)」期と呼ぶようになった交響曲第26番、第35番、第38番『こだま(エコー)』~第52番(第40番を除く)、第58番、第59番『火事』、第65番や、作品9、作品17作品20弦楽四重奏曲中でも作品20の『太陽四重奏曲』は短調の曲を2曲含み最終楽章フーガ用いるなど対位法的に複雑な性質を持つ)、ピアノソナタ第20番ランドン版では第33番)などがこの時代属する。1770年代後半になるとより簡明な作風変化した1780年ごろにはエステルハージ家の外でもハイドン人気上がり徐々にエステルハージ家以外のために書いた曲の比率増していった。この時期には『ロシア四重奏曲 作品33』(1781年)、『チェロ協奏曲第2番 作品101』(1783年)、『ピアノ協奏曲 ニ長調Hob. XVIII:11)』(1784年出版)などの重要な作品まとめて書かれた。またハイドンウィーンアルタリア社やロンドンフォースター社などと契約結んで楽譜出版した1785年から翌年にかけてはフランスからの注文で『パリ交響曲』(第82番『熊』~第87番)を作曲したが、これはエステルハージ家以外の楽団のために書かれ最初交響曲だった。1785年にはスペインからの注文によって、管弦楽曲(後に弦楽四重奏曲オラトリオ編曲)『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が作曲された。 グリージンガーによると、ハイドンは「侯爵生きている限り彼のもとを離れるわけにはいかなかった。」と述べており、長い間イギリスからの招待断っていたという。また、ハイドン次のようにも述べていたという。 侯爵は私の全ての作品満足していた。私は承認得てオーケストラ楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果高め何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し付け加え削除し冒険することができたのだ。私は世間から隔絶されていて、私の周りには行く手惑わせたり邪魔したりする者は誰もいなかった。だから、私は独創的にならざるをえなかった。 1781年頃、ハイドンモーツァルト親しくなった。この2人互い技量尊敬抱きモーツァルト1791年死去するまで友情変わらず続いたモーツァルト1782年から1785年にかけて、6つ弦楽四重奏曲ハイドン・セット)を作曲しハイドン献呈している。また後にハイドンは、モーツァルト遺児カール・トーマス・モーツァルト)の進学音楽留学)の世話をしている。

※この「エステルハージ家での仕事」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の解説の一部です。
「エステルハージ家での仕事」を含む「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の概要を参照ください。

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