エステルハージ家とハイドン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 14:10 UTC 版)
「エステルハージ」の記事における「エステルハージ家とハイドン」の解説
交響曲の父と呼ばれる著名な作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、エステルハージ家に楽長として仕えた。1761年、ハイドンはエステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフに雇われ、ミクロージュ・ヨージェフの孫であり後継者であったエステルハージ・ミクローシュのもとで長く働いた。ミクローシュの後を継いだ息子のエステルハージ・アンタルは音楽にほとんど関心がなく、ハイドンは名ばかりの楽長となり、旅行先のイギリスで大半を過ごすこととなる。アンタルは数年で亡くなり、次のエステルハージ・ミクローシュのとき、再び楽長として仕え、主にミクローシュの妻でハイドンの友人であったマリア・ヨーゼファ・ヘルメネギルド(1768–1845)の聖名祝日ミサ曲を、毎年作曲をした。老齢だったハイドンは、1809年に病で没するまでこの仕事を続けた。
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