ウオッチマン・ニーとの働き
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「ウイットネス・リー」の記事における「ウオッチマン・ニーとの働き」の解説
リーはクリスチャンになるとすぐに、さまざまなクリスチャン教師たちの書物を学び始め、ウオッチマン・ニーの二つの定期刊行誌「明けの明星」、「クリスチャン」を見つけた。リーはウオッチマン・ニーと文通を始め、聖書を理解する上での助言と指導を求めた。1932年、ニーは煙台を訪れ、彼らは初めて互いに会うこととなった。ニーの訪問の間、リーは自分と神との関係、またどのように聖書を学ぶかに関する理解に大変革があったと感じた。 この時期、リーは職業を捨て全時間で主に仕えるよう主が召していると深く感じ始め、1933年8月に仕事をやめて全時間で主に仕えるようになり、その8年前に生涯をイエス・キリストにささげると誓った誓願を成就した。その直後に、リーはウオッチマン・ニーから手紙を受け取り、そこには以下のように書かれていた。「ウイットネス兄弟、あなたの前途について、あなたは全時間で主に仕えるべきであるとわたしは感じています。あなたの感覚はどうでしょうか? 主があなたを導いてくださいますように」。リーはこの短い手紙を受け取って大いに励まされ、自分の決定に対して強い確信を受けたと感じた。 その時点から、リーはニーと密接に働いた。 1934年、リーと彼の家族は上海に移住し、ニーの出版の働きの責任を託された。特に「クリスチャン」という雑誌の編集者に任命された。この雑誌は1934年から1940年まで発行された。彼はまた「ニューズレターの収集」の編集者にもなった。1934年にリーは中国各地を旅行し始め、信者たちにメッセージを与え、諸地方教会を確立した。リーが与えたメッセージの結果、浙江省で多くの諸地方教会が確立された。1935年末から1937年夏まで、彼は労苦して北京と天津で教会を確立した。彼はまた遠くへ旅をし北西部の綏遠省、山西省、陝西省の各省で福音を宣べ伝え、聖徒たちを確立した。それは、1937年に日本軍が侵略してくるまで続いた。 日本軍の侵攻のゆえに、1937年11月、リーは煙台に戻り、1943年まで大部分の時間を、煙台に在る教会と青島市近郊の教会を顧みることに費やした。1942年末、彼の故郷煙台で、彼が個人的に聖徒たちを養ったことと、彼がニーの務めに密接に従ったことを通して、大復興がもたらされた。1943年1月1日から、教会は百日間、連続して集会した。その結果、八百名以上の聖徒たちがすべてを主にささげ、何人かは移住して中国北西部で福音を推進した。その期間の終わり、1943年5月、リーは日本軍に逮捕され、一か月間、獄に入れられた。彼の健康は投獄によって大いに弱まり、釈放後、間もなく肺結核が進行した。休息し完全に回復するために、彼は1944年、青島に移り、そこに二年間とどまった。終戦に続き中国では共産主義が台頭しニーの務めに大きな障害をもたらした。1949年5月、国共内戦による政局の変化のゆえに、ニーとその同労者はリーが中国大陸を離れて台湾へ行き、主の回復の働きを継続するように指示した。彼はまたリーに、上海福音書房の出版の働きを継続するように命じた。 ニーとリーは1950年、香港で再会した。一か月以上、彼ら二人は共に奉仕し、香港に在る教会に復興をもたらした。ニーはリーに、香港に在る教会と働きを監督する責任を託した。彼はリーに、長老たちを教示し、教え、指導し、奉仕と執事の務め、そして集会所建築のための土地を買うことに関する按配をするようにと命じた。ニーはまたリーに、中国以外での出版の働きの責任を担うようにと命じた。それはその当時、台湾の台湾福音書房によって、また香港の香港福音書室によってなされていた。間もなく、ニーは中国大陸に戻った。それはこの二人が互いに会った最後の時であり、彼らが直接、交流した最後の時であった。その時点から、リーはニーが始めた未完成の働きを遂行し始めた。
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