アメリカ軍総攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:26 UTC 版)
5月11日、米軍の総攻撃が開始された。米軍はすでに沖縄本島北部の攻略を完了しており、この総攻撃にはアメリカ海兵隊 第1師団、第6師団、アメリカ陸軍第77師団、第96師団、第7師団が投入される。22連隊は、首里に中央突破を仕掛けてくるアメリカ第77師団と対戦した。日本側の政略放送東京ローズは、シュガーローフの戦い(那覇市安里)や、チョコレートドロップの戦い(那覇市首里石嶺)で攻めあぐねるアメリカ軍に対し、心理戦を強化した。日本軍は治療中の負傷兵から歩行可能なものは、再度前線に投入した。 5月11日から15日にかけて、22連隊は石嶺地区で防戦にあたり、連日アメリカ軍の攻勢を撃退していた。140高地(米称フラットトップ 現:那覇市首里石嶺町2丁目市営住宅給水塔)を中心として第2大隊平野大尉以下奮戦したが、5月15日時点で、140高地の残兵は20数名となり、32連隊伊東大隊の増援を受け、戦車27連隊の90式野砲4門の支援砲撃で戦線を維持することができた。この頃、近藤歳次郎准尉(愛媛県伊予三島出身)、田川慶介大尉(愛媛県松山出身)、八幡勇少尉(愛媛県松山出身)、白尾重枝曹長(愛媛県大洲出身)、山本政秋曹長(愛媛県上浮穴出身)、渡辺玉吉曹長(愛媛県上浮穴出身)、中田政行准尉(愛媛県東宇和郡出身)、山本栄馬准尉(愛媛県松山出身)ら、22連隊を支えてきた将兵が戦死していった。 5月16日未明、アメリカ軍の手榴弾奇襲攻撃により、歩兵第22連隊第1大隊は大損害を受け後退する。この日、沖縄出身者の防衛召集兵百数十名が、22連隊に補充されることになったが、22連隊長吉田中佐は「22連隊は、全滅に瀕している。もう来るには及ばない。後日に備えて原隊に帰り、負傷兵の治療に専念してくれ。」と補充兵に命令した。すでに戦争の帰結は、22連隊の兵士すべてにわかっている。これ以上沖縄出身の補充兵を、敵戦車の餌食にしたくなかった。第3大隊の兵力は、2日間で90名から25名に激減した。日本軍沖縄守備隊32軍司令部は大本営に対して「首里に最後の予備兵力を投入するも保持困難。武器なき25000人の戦闘員に対する急速兵器の輸送。精鋭歩兵数個師団の沖縄への緊急落下傘降下。全航空兵力による沖縄周辺の敵艦船撃破。」の要請を打電した。 5月17日払暁、アメリカ歩兵第77師団が22連隊正面に不意打ちをかけ、石嶺(米称:チョコレートドロップ)が奪取された。140高地の頂上が一時米軍に占領されたが、夕刻までに撃退した。22連隊の兵士は、タコツボ壕を巧妙に偽装して隠れ、敵をやり過ごして背後から攻撃を仕掛け多くの戦果を挙げた。 5月18日、140高地は火炎戦車を伴なう米軍に包囲され、馬乗り攻撃を受けた。米軍戦車は、タコツボ壕を一つ一つ踏みつぶし、潜伏している日本兵を確実に殺していった。翌日には洞窟陣地が爆破された。翌々日には140高地で250体以上の日本兵の遺棄遺体を米軍により確認された。 5月19日、140高地の平野大尉は、馬乗り攻撃を受けた後、奇跡的に脱出に成功した。第3大隊は壊滅し、独立山砲第1連隊第5中隊の数十名を新たに22連隊第3大隊として戦い続けた。 5月20日、日本軍右翼部隊の歩兵第89連隊は、運玉森で壊滅した。第24師団長は22連隊を師団予備とし、歩兵第32連隊を中地区隊とすることを命じた。22連隊に配属された独立臼砲第1連隊第5中隊長緒方眞治中尉(士52期)が22連隊第3大隊長となり、22連隊第3大隊が再編成された。 5月21日、日本軍左翼部隊の歩兵第32連隊も事実上壊滅し、津嘉山に後退した。以後日本軍左翼の防御は、歩兵第32連隊から独立歩兵21大隊に変更された。日本軍の中央部隊である22連隊は、戦車第27連隊(連隊長 村上乙中佐 士36期 愛媛県新居浜出身)の応援を受けて、首里北方石嶺、弁ヶ岳付近に存在した。ただし、戦車第27連隊は、主力戦車がすでに壊滅し、残った数両の九五式軽戦車は砲撃により道路が破壊されて通行ができず、戦車から機関銃を取り外し、機関銃を担いだ徒歩の戦車兵が応援にきた。米軍は攻勢をさらに強化して、アメリカ第77師団の援護に第96師団も投入して首里攻略を狙った。 5月24日、32軍司令部の要請に応え、大本営は義烈空挺隊による読谷、嘉手納飛行場の奇襲を行ったが、戦局全般には影響しなかった。
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