アジア主義とその挫折
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明治35年(1902年)、欧米列強による清の半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。 玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。 大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国の植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。 並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。 またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国にインド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。 頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなど当時アメリカやフランス、イタリアなどの列強の帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。 大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。 翌年、孫文の後継者として蔣介石が中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。 昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。
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