アジア主義の盟主として活躍とは? わかりやすく解説

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アジア主義の盟主として活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 19:02 UTC 版)

近衛篤麿」の記事における「アジア主義の盟主として活躍」の解説

篤麿外交政策は、中国当時は清)を重視したものであった。特に日清戦争後積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。 明治26年1893年)に東邦協会の副会頭就任日清戦争後西欧列強中国分割動き激しくしていく中で危機感を抱く。明治31年1898年1月雑誌太陽第4巻第1号載せた論文同人同盟支那問題研究の必要」で「最後運命黄色人種白色人種競争にして此競争の下には支那人日本人も共に白色人種仇敵として認められる位地に立たむ」と日本中国同文同種主張して同年同文会設立したが、同文会は、アジア主義の祖たる興亜会アジア主義巨頭である犬養毅東亜会、さらに東邦協会善隣協会一部などを吸収して東亜同文会となり篤麿は同会の会長就任する。かくて民間団体糾合国家主義アジア主義大同団結運動企み康有為との会談ではアジア・モンロー主義主張した東亜同文会アジア主義色彩の強い立場立脚し中国・朝鮮保護日本権益保護のため、外務省軍部と密接に提携しながら、明治33年1900年)に南京同文書院(後の東亜同文書院その後愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動推進図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官劉坤一両江総督)や張之洞湖広総督)などにも独自に接近日清連携もちかけたそうした中で同年6月中国華北満州現在の中国東北部)を中心に義和団の乱勃発、これに乗じたロシア満州占領下置いた。これに強い危機感抱いた篤麿伊藤博文政府高官ロシアに対して開戦辞さない強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが、対ロシア融和派の伊藤応じ戦争回避動いていたので篤麿犬養頭山満陸羯南中江兆民同志糾合して9月国民同盟会結成して対ロシア主戦論唱えロシアとの開戦踏み切らない日本政府批判行った。 さらに長岡護美書簡託し満州列国開放することで領土保全を図るよう、劉坤一張之洞働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの篤麿の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清の中央上奏し、採用求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱採用し日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本対す障害となったまた、明治36年には玄洋社頭山平岡浩太郎黒龍会内田良平名を連ねる対露同志会結成貴族院議長辞任枢密顧問官任命された。戸水寛人らの七博士意見書にも関与していた。 小川平吉頭山らが篤麿首班にした内閣をつくろうとした中、明治37年1904年1月1日42歳死去した(満40歳没)。中国渡航した際に感染した伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)が原因であった近衛家菩提寺である大徳寺京都市北区)に葬られた。 篤麿死後、わずか二か月後に彼の希望通り日露戦争発生することになる。 篤麿死後多額借財があり、頭山五百木良三国民同盟会メンバー債権者退散させたこともある。

※この「アジア主義の盟主として活躍」の解説は、「近衛篤麿」の解説の一部です。
「アジア主義の盟主として活躍」を含む「近衛篤麿」の記事については、「近衛篤麿」の概要を参照ください。

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