佐土原城跡とは? わかりやすく解説

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佐土原城跡

名称: 佐土原城跡
ふりがな さどわらじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮崎県
市区町村 宮崎市
管理団体
指定年月日 2004.09.30(平成16.09.30)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 佐土原城跡は、周囲弁天山などの山塊囲まれ、北を一ツ瀬川で限る位置にあり、内部居館地域を含む中世から近世当地域の支配使われ城跡である。
佐土原城跡の所在する一帯は、鎌倉期以降伊東氏一族である工藤氏田島氏が城を構えたとされる応永34年(1427)に伊東氏田島氏を滅ぼし佐土原城に入るが、特に天文5年1536)、伊東義祐城主時に城を整備して日向48城の中心的城郭として機能することになる。伊東氏は、元亀3年(1572)の木崎原の戦い島津軍大敗喫し天正5年(1577)には日向捨て豊後へ退くことになる。その後日向島津氏支配下となり、佐土原城には、島津家久天正7年(1579)に入った慶長5年1600)の関ヶ原の戦い2代豊久亡くなり佐土原一時幕府領となったが、慶長8年(1603)徳川家康により島津以久佐土原万石封ぜられると、佐土原城は、明治3年1870)に広瀬移転するまで、居城として機能したこのように佐土原城跡は、中世から近世当地支配した伊東氏から島津氏に至る450年余、当地域の政治・経済文化中心として機能した城跡であった
城跡は、南北二つ山塊からなる山城部と、山城部により南北と西の三面馬蹄形状に囲まれ居館部とで構成される山塊は、東西縦断する切通により南北分かれ北部山塊は「弁天山」と呼ばれている。山城部の遺構は、南部山塊集中している。南部山塊は、南北延びる主尾根筋とそれから北東延びる2本の尾根筋構成され、主尾根筋上には北に本丸、南に南の城と称される曲輪配し、南の城の南端には松尾丸を配している。また、弁天山には、時報太鼓(後に鐘)が置かれていたとされるそれぞれの曲輪は堀、土塁等によって区画され天守台跡、櫓台跡、城門跡等の建物跡確認されている。居館部では、遺構として確認されているのは土塁井戸跡である。江戸期絵図によれば土塁と堀城門で谷開口部閉ざし城主館、各種役所家臣団屋敷などが配置されていたことがわかる。
佐土原町教育委員会は、平成元年から居館部、山城部等の発掘調査開始した居館部の調査では、14世紀から19世紀陶磁器や瓦の遺物や堀底幅15mの堀跡、礎石掘立柱建物跡井戸跡土塀跡、門跡などが検出された。堀跡東側会所跡と想定される地域調査でも、14世紀から19世紀陶磁器多数掘立柱建物跡検出している。また、御普請所跡の調査においては17世紀中心とした掘立柱建物跡羽口多く鉄滓出土した山城本丸部の調査では、14世紀陶磁器を伴う掘立柱建物跡金箔鯱瓦を含む瓦、陶磁器等や天守台跡の遺構確認された。天守台跡は、四方石垣基礎部が現存し建物礎石も2個残存する残存する礎石抜き跡から桁行6間、梁行5間の規模建物であったことが確認されている。
このように中世から近世まで一貫して地域支配拠点として使用され城跡は、我が国歴史考え上で貴重であり、か遺構保存状態良好なことから、史跡として指定し保護図ろうとするものである
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