河後森城跡とは? わかりやすく解説

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河後森城跡

名称: 河後森城跡
ふりがな かごもりじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 愛媛県
市区町村 北宇和郡松野町
管理団体
指定年月日 1997.09.11(平成9.09.11)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: H09-07-044[[河後森城跡]かごもりじょうあと].txt: 河後森城跡は、伊予土佐の国境地帯の山間地に位置し清流四万十川支流広見川に臨む、秀麗な山容独立山塊上に占地する大規模な城郭跡である。中世黒土河原淵領と呼称されたこの地域は、現在の松野町広見町大部分および日吉村構成され、河後森城跡が領域中心地位占めている。
 中世四国南西地域は、南北朝期西園寺氏一族伊予国宇和荘に、応仁の乱中に摂関家一条氏土佐国幡多荘下向土着し、ともに戦国期に小大名化するという特殊な地域史共有している。黒土河原淵領の領主渡邊氏出自不明だが、暦応3年(1340)の大洲清谷寺旦那譲状道後河野氏、宇和西園寺氏とともに河原淵殿一族記載があり、このころにはすでに一定の勢力保持していたと考えられる
 16世紀中ごろ河後森城主の式部小輔教忠は土佐一条氏からの入嗣であり、一条氏勢力西園寺氏圧迫していたことが知られる近世文書の「宇和旧記によれば渡邊教忠西園寺15将と呼ばれた国人領主の中で、最も大身16500石を領したという。近世編纂物である「清良記」の記載によれば天文から天正期にかけてこの地域一帯では一条氏長宗我部氏合戦繰り返され天正5年(1577)には渡邊教忠長宗我部氏降り家臣源三郎によって河後森城主の地位追われた。同13年豊臣氏四国討伐により長宗我部氏敗れ宇和郡小早川領に組み入れられた。同15年ころには戸田氏文禄3年(1594)ころには藤堂氏頻繁に豊臣大名入れ替わった宇和島城築城の際に藤堂高虎は、河後森城天守月見櫓として移築した伝えている。慶長13年(1608)には富田氏、同19年には伊達秀宗宇和島城入った河後森城には各大名の有力家臣城代として配され伊達氏以降家中で最も大身付家老桑折中務が7,000石を領して後森居城した。
 河後森城跡は、本城標高171メートルで、麓との比高差は88メートルを測り、急峻な山容である。城跡南側に開く馬蹄形尾根線上に、東から旧小字地名でいう古城本城新城各地区が展開しその内側の風呂ヶ谷の谷部屋敷群が存在する古城地区東西約180メートル範囲4つの郭を配し本城との間を大堀切で切断している。本城地区東西約180メートル南北200メートル範囲13の郭を配し中央部大堀切を設けている。新城地区古城地区から南側延びる約170メートル屋根上に10超える郭群を配している。いずれも南側土佐方面守り意識した堅固な構えで、古城本城新城城域順次拡張されていったものと推測される松野町教育委員会平成3年度から発掘調査開始し各地区からは15世紀から16世紀にかけての貿易陶磁器備前焼等の豊富な遺物出土している。本城地区中心に瓦も出土し礎石確認されていることから、瓦葺き建物存在推測される小規模な石垣遺構検出されており、天正13年以降豊臣系の築城技術一部導入され可能性考えられる
 河後森城跡は、予土国境の境目の城として、戦国期から江戸初期にかけて大規模城郭発展した過程を示す遺構きわめて良好に残っている。よって史跡指定し、その保存図ろうとするものである
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