「信濃・大和」への思い
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1943年(昭和18年)1月に、『菜穂子』の構想の一部であった「ふるさとびと」を『新潮』に発表。登場人物に亡き母のイメージを重ね、東京の下町ではなく、信濃追分を「ふるさと」にしようという志向が表れている。一方、8月まで雑誌『婦人公論』に、それまで6回訪れた大和旅行を随筆的にまとめた「大和路・信濃路」を連載し、大和への思慕を綴る。この大和への関心にも、折口信夫の影響が顕著に見受けられ、「日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追ひやられながら、遠い田舎のはうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の侘びしいうしろ姿を一つの物語に描いてみたい」という小説の抱負も語っているが、これは実現しなかった。 1944年(昭和19年)1月に「樹下」を『文藝』に発表。下旬に森達郎と疎開先の家を探しに追分へ行く。帰京後に喀血し、絶対安静の状態が続き、9月に追分に借りた家へ移る。1945年(昭和20年)、療養に専念しながら、日本の古典への関心を示し、新たな小説の創作意欲を持つ。1946年(昭和21年)3月に「雪の上の足跡」を『新潮』に発表。それ以降は、病臥生活に入る。「ふるさとびと」を発展させたものを書きたいという抱負を持っていたが、果たせないままとなった。 1947年(昭和22年)2月に一時重篤状態となる。1949年(昭和24年)、川端康成や神西清の配慮で、旧作が再刊される。1950年(昭和25年)、自選の『堀辰雄作品集』が第4回毎日出版文化賞を受賞。1951年(昭和26年)7月に追分の新居に移る。1953年(昭和28年)5月、病状が悪化し、新居の書庫の完成を見ないまま、28日午前1時40分に妻・多恵に看取られ死去した。48歳没。30日に追分の自宅で仮葬し、6月3日に東京都港区芝公園(現:港区芝公園四丁目)の増上寺で、川端を葬儀委員長として告別式が執行された。翌々年の1955年(昭和30年)5月28日に多磨霊園に墓碑が建てられ、納骨された。
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