「信濃・大和」への思いとは? わかりやすく解説

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「信濃・大和」への思い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:54 UTC 版)

堀辰雄」の記事における「「信濃・大和」への思い」の解説

1943年昭和18年1月に、『菜穂子』の構想一部であったふるさとびと」を『新潮』に発表登場人物亡き母のイメージ重ね東京下町ではなく信濃追分を「ふるさと」にしようという志向表れている。一方8月まで雑誌婦人公論』に、それまで6回訪れた大和旅行随筆的にまとめた「大和路・信濃路」を連載し大和への思慕綴る。この大和への関心にも、折口信夫影響顕著に見受けられ、「日本仏教渡来してきて、その新らしい宗教次第に追ひやられながら、遠い田舎のはうへと流浪の旅をつづけ出す古代小さな神々侘びしうしろ姿一つの物語に描いてみたい」という小説抱負語っているが、これは実現しなかった。 1944年昭和19年1月に「樹下」を『文藝』に発表下旬森達郎疎開先の家を探し追分へ行く。帰京後喀血し、絶対安静の状態が続き9月追分借りた家へ移る。1945年昭和20年)、療養専念しながら、日本の古典への関心示し新たな小説創作意欲を持つ。1946年昭和21年3月に「の上足跡」を『新潮』に発表それ以降は、病臥生活に入る。「ふるさとびと」を発展させたものを書きたいという抱負持っていたが、果たせないままとなった1947年昭和22年2月一時重篤態となる。1949年昭和24年)、川端康成神西清配慮で、旧作再刊される。1950年昭和25年)、自選の『堀辰雄作品集』が第4回毎日出版文化賞受賞1951年昭和26年7月追分新居に移る。1953年昭和28年5月病状悪化し新居書庫完成見ないまま、28日午前1時40分に妻・多恵看取られ死去した48歳没。30日追分自宅仮葬し、6月3日東京都港区芝公園(現:港区芝公園四丁目)の増上寺で、川端葬儀委員長として告別式執行された。翌々年1955年昭和30年5月28日多磨霊園墓碑建てられ納骨された。

※この「「信濃・大和」への思い」の解説は、「堀辰雄」の解説の一部です。
「「信濃・大和」への思い」を含む「堀辰雄」の記事については、「堀辰雄」の概要を参照ください。

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