興亡
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1147年、教皇エウゲニウス3世はカタリ派の増えていた地域へ説教師たちを派遣してカタリ派信徒を穏健にカトリック教会へ復帰させようとした。しかし、クレルヴォーのベルナルドゥスなどのわずかな成功例を除けば、ほとんどの人が耳を傾けずに失敗に終わった。 その後、トゥール教会会議(1163年)や第3ラテラン公会議(1179年)においてカタリ派の禁止が正式に決定された。当初は教皇が南フランスへ特使を派遣してカタリ派信徒たちにカトリック教会への復帰を呼びかけるという方法がとられていたが、南フランスに割拠していた領主たちがフランス王権の及ばない範囲にいて教皇庁の影響力をおよぶことを嫌い、その後押しを受けた地元の司教たちも教皇使節の介入を拒否した。 カタリ派の問題が政治問題化し始めたことを危惧した教皇庁は南フランスの司教たちの統治権を停止、カステルノーのペトルスを現地に派遣した。ペトルスはカタリ派を保護していた世俗君主たちを破門したが、ローマへ帰還する途中で暗殺された。確証はないものの、教皇使節暗殺の黒幕は同地の領主トゥールーズ伯であったとされている[要出典]。 ここにおいて教皇庁はフランス王フィリップ2世と協議。南フランスを自らの支配下におさめて全フランスを王権のもとにおきたいと願ったフランス王の思惑とカタリ派(アルビ派)の拡大に悩む教皇庁の思惑が一致して、フランス王の指導のもとに、1209年、カタリ派とカタリ派を保護する諸侯を撃破するための十字軍が編成された。これが「アルビジョア十字軍」である。十字軍は南フランスで抵抗する領主たちを撃破し、一部でカタリ派信徒を殺害した。最終的に1229年にパリで和平協定が結ばれ、トゥールーズ伯が王への服従とカトリック信仰への復帰を表明するという形でフランス南部がようやくフランス王の版図に組み込まれた。この十字軍は宗教的な理由によるものというより、フランス王と北部の諸侯たちが、王権に服従していなかった南部の諸侯たちを屈服させるために行った軍事行動であった[要出典]。 1229年、カタリ派への対抗策として異端審問制度が実施された。南フランスにおける異端審問は13世紀を通じて行われた。1244年、カタリ派の最後の砦であったモンセギュールが陥落し、立て篭っていた多くのカタリ派信者が改宗を拒んで火刑に処せられた。その後も捕らえられたカタリ派指導者たちが異端審問によって処刑を宣告された上、世俗領主に引き渡されて処刑されたことで徐々に南フランスにおけるカタリ派の影響力は低下していった。最後の「完徳者」ギョーム・ベリパストが捕らえられたのは1321年であった。1330年を過ぎると異端審問所の資料からカタリ派の名前は消えていき、信徒たちは山中や森に逃れ、各地へ離散していった。捕らえられた信徒の多くは処刑されたが、この際にカタリ派の信仰を捨てる事を誓った者は、衣服に黄色い十字架を縫い付け、他のキリスト教徒とは隔離された場所での生活を義務付けられる事で罪が赦される場合もあったという。 カタリ派や(同様に異端とされた)ワルドー派はもともとはキリスト教を改革しようという民衆運動に端を発したものでフランシスコ会などの托鉢修道会と同じルーツにもとづいたものであった[要出典]。カタリ派信徒の中には托鉢修道会に合流したものもあったという[要出典]。 アナバプテストのうちランドマーク・バプテストは、カタリ派がキリスト教であり、その信仰を継承しているとする[要出典]。
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興亡
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古くは古生代のアノマロカリスのような節足動物から、今ではオオカミのような哺乳類まで、地球の歴史には様々な肉食動物が登場してきた。そのうち少なくない種が狩りをする捕食者であると同時に死肉を漁るスカベンジャーであり、また他者から獲物を奪う横取り屋でもあった。例えばライオンは優秀な狩人であるが、チャンスさえあれば積極的にチーターの獲物を奪い取っている。
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