あずまあそび 【東遊】
東遊
東遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 17:57 UTC 版)
西遊から帰京した翌年の天明4年(1874年)秋に信濃国を巡遊。翌5年、33歳の秋9月に門人養軒を同道して東遊の途に就く。京から越前国敦賀へ出て、そこから北陸道をたどって日本海岸を東下し、富山で年を越してからさらに北上、本州島北端で松前渡海の港であった三馬屋(みうまや)へ至った後に南部地方を縦断する形で仙台に至り、そこでしばらく滞在した後に奥州道中を南下して江戸へ出、鎌倉を通過する東海道を西上して天明6年の夏頃に帰京した。 上述のように、南谿自身は両遊記を「医学の為」を「主意」とする旅の余滴であると位置付けるものの、その「主意」が反映された記述も各所にうかがえ、ことに東遊においてその旅を秋に始めて降雪厳しい冬期の北陸路をたどったのも、あえてその環境に身を置くことで寒さ過酷な地で人体に生起する病疾や障害を体験あるいは見聞するという姿勢が認められ、その体験が北陸や出羽に関する各章に反映されている。 また、南谿の東遊は天明の大飢饉の爪痕生々しい地域をたどるもので、稿本中にはその情景を語る記述があり(巻之十「饑渇負」)、その中で、当初は死骸を「見るも不祥なりとて顔をそむけ」た自身も「後には目なれて格別に不浄にも覚へず」、かえって「よき医者の稽古也」と思うようになったことや、現地で飢えの厳しさから行われたという食人等の惨事を記して飢饉の中で人間性が喪失されていく様を描き、旅後に「東北の事おもひ出せば心中惻然として気分悪敷(あしく)なる事を覚ふ」と語るが、憚るところがあったためか板本からは削られている。 なお、南谿は天明3年の西遊からの帰京からほどなくして『西遊記』(稿本)を編述したらしく、南谿の東遊期間中には同書がすでに知人の間で回読されていた可能性があり、また板本『西遊記』に見られる東国に関する記述は、板行に際してその原『西遊記』に東遊での見聞を補筆したものと思われる。
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東遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 02:20 UTC 版)
天明7年(1787年)、東北地方を目指して旅立ったが、米価騰貴のため江戸の実子・松田魏丹宅に滞在し、時期を見計らっていた。翌年春、何らかの理由で水戸藩長久保赤水の知遇を得、急拵えで絵図を作り見せたところ、赤水も古松軒の実力を認め、以降親しく交流した。 赤水から水戸藩または柴野栗山を通じて幕府巡見使の随員に採用され、巡見使藤波要人、川口久助、三枝十兵衛に従い奥羽地方及び松前を巡り、『東遊雑記』を著した。5月6日江戸を出発、奥州街道を北上して陸奥国に入り、出羽国を通って7月20日松前に到着、8月中旬まで滞在した後、陸奥国太平洋側を巡り、水戸街道経由で10月18日江戸に帰着した。
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