大坂の陣
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大坂冬の陣
豊臣方の準備
10月2日、豊臣家では旧恩の有る大名や浪人に檄を飛ばし戦争準備に着手した。同日に兵糧の買い入れを行うとともに、大坂にあった徳川家をはじめ諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。秀吉の遺した莫大な金銀を用いて浪人衆を全国から集めて召抱えたが、諸大名には大坂城に馳せ参じる者はなく、ただ福島正則が蔵屋敷の兵糧を接収するのを黙認するにとどまった[注釈 7]。また籠城のための武器の買い入れ、総構の修理・櫓の建築なども行った。秀頼の援軍要請に応じる大名がいなかったことについて、徳川方は秀頼が孤立したものとは見ておらず、島津家久(忠恒)からは人質も取り黒田長政ら両名に対して重点的に馴致工作を行い、西国大名達に徳川秀忠に対して忠勤を誓う起請文を出させていたことが原因ではないかとする指摘がある[11]。
集まった浪人を併せた豊臣方の総兵力は約10万人で、明石全登、後藤基次(又兵衛)、真田信繁(幸村)、長宗我部盛親、毛利勝永ら五人衆のほかにも塙直之、大谷吉治などがいた。彼らはいずれも関ヶ原の役後に御家取り潰しなどに遭い徳川家への復讐を考える者、戦乱に乗じて一旗上げようとする者、豊臣家の再起を願う者、討ち死覚悟で豊臣家への忠義を尽くす者など、それぞれの思想は異なるが、歴戦の勇士が多く士気も旺盛だったが、いかんせん寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれず、実際の戦闘では作戦に乱れが生じる元ともなった。
豊臣勢内部は二つに割れていた。まず、豊臣家宿老の大野治長を中心とする籠城派。二重の堀で囲われさらに巨大な惣堀、防御設備で固められた大坂城に立て籠もり、徳川軍を疲弊させて有利な講和を引き出そうという方針である。これに対し浪人衆の真田信繁は、まず畿内を制圧し、関東の徳川と西国の諸大名を遮断。近江国の瀬田川まで軍を進め、ここで関東から進軍してくる徳川軍を迎え撃ち、足止めしている間に諸大名を味方につけ、その見込みが無いときに初めて城に立て籠もって戦う、二段構えの作戦を主張した。後藤基次・毛利勝永も真田案を元に伊賀国と大津北西にも兵を送り、敵を足止めすべしと主張して対立したが、結局、大野治長ら豊臣家臣の案である、警戒・連絡線を確保するために周辺に砦を築きつつ、堅固な大坂城に籠城する作戦が採用された[注釈 8]。
同月、豊臣方は淀川の堤を切って大坂一帯を水没させ、大坂城を浮城にしようとしたという。しかし幕府方の本多忠政・稲葉正成などにより阻止され、被害は行軍に支障をきたす程度にとどまった。
幕府軍の出陣
10月11日、家康は軍勢の指揮を執り駿府を出発した。
12日、豊臣方の真木島昭光が堺の幕府代官を交替させようと堺に向けて出陣している。
23日、家康は二条城に入り、同日秀忠が6万の軍勢の指揮を執り江戸を出発した。
25日、家康は藤堂高虎・片桐且元を呼び、先鋒を命じている。
11月1日、摂関家の当主らが、家康の元に訪れて朔日の祝いを述べた。ところが現任の関白である鷹司信尚のみは、延期された方広寺の大仏の開眼供養に出席しようとしていたことを家康から問題視されて会見を断られる。信尚はそのまま謹慎を余儀なくされ、その後家康が行った禁中並公家諸法度の草案に対する公家たちへの意見聴取の対象にもされることがないまま、翌年閏6月に関白の辞表の提出をしている[12]。
幕府方の動員した兵力は約20万に上った。なお豊臣恩顧の大名である福島正則や黒田長政、加藤嘉明、旗本の平野長泰は江戸城に留め置きとされた。彼らは関ヶ原の戦いで東軍勝利のために尽力したが、これはあくまで不仲であった石田三成の討伐が目的だったため、豊臣家との戦となれば敵方に寝返る可能性があった。なお、江戸城留め置きとされた大名も、その子が大坂に参陣した。
諸大名らの軍勢は揃って江戸から出立したわけではなく、当主が急遽帰国し、各々の国許から(家康らとは別に)指定された集結地点(瀬田・大津・京都郊外、大坂付近など)に集結した。例として、越前福井藩主の松平忠直は当時江戸に滞在していたが、緊急に本国に使者を派遣して出陣を指示、越前松平家附家老の本多富正が軍の指揮を執り越前を出立、近江国大津に軍を進め、同地で江戸からやってきた忠直と合流した、などがある。
11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。
18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っている。
緒戦
11月19日、戦闘は木津川口の砦においてはじまる(木津川口の戦い)。この後26日には鴫野・今福で(鴫野・今福の戦い)、29日には博労淵、野田・福島において戦闘が行われた(博労淵の戦い、野田・福島の戦い)。数ヶ所の砦が陥落した後、30日に豊臣軍は残りの砦を破棄、大坂城に撤収する。
攻囲戦
豊臣方が籠城した大坂城を徳川方は約20万の軍で完全に包囲した。家康は12月2日、茶臼山を[13]、以降は各将の陣を視察し、仕寄(攻城設備)の構築を命じている。4日より各隊は竹束・塹壕・築山などの仕寄の構築を行いつつ大坂城に10町から5・6町まで接近していった[14]。これ以前、家康は10月22日に命じた方広寺の炉で作成させた鉄盾を各将に配布している[15]。
この接近時に起こった真田丸の戦い(12月3日、4日)で豊臣軍が徳川軍を撃退。秀忠は4日に岡山に着陣し、5日に家康が和議を考えていると知り総攻撃を提案するが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下したが、これに対して秀忠は奇怪と不満を露わにしている[16]。
6日、家康は住吉から茶臼山に本陣を移し[17]、8日までに到着した部隊にも仕寄(しより、塹壕のこと)の構築を命じている。
9日、家康が11月23日[18]より伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた淀川の流れを尼崎に流す長柄橋の工事が完了し、大和川があるため干上がることはなかったが川の深さは膝下まで下がる[19]。大和川の塞き止めも行われ、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘っている(この鬨の声は京まで届いた)[20]。この頃より大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化し、幕府方の仕寄は松平忠明隊は20から30間、藤堂隊は7間に近接している[21]。
10日には降伏を促す矢文を送り[22]、11日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊するための坑道の掘削を始めた[23]。13日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配っている[24]。さらに、船場の堀の埋め立ても命じた[25]。また、大坂方武将への調略も行われ、本多正純が、弟で前田家家老の本多政重に真田信尹(徳川軍使番・真田信繁の叔父)と協力して、信繁を徳川軍に寝返らせるよう指示した文書が残されている。
15日、後述する和議交渉が暗礁に乗り上げると、翌16日から、全軍より一斉砲撃が始められる[26]。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に打ち込まれ、また、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。 この砲撃では国友製3貫目の大砲、芝辻理右衛門により鍛造で造られた鉄製の大砲が使われた。芝辻理右衛門製の大砲は靖国神社の遊就館に奉納されている。
6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比類)[27]も含まれていると思われる。
豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗。竹束のみの時は一手に付き300から500人の死傷者が出たが、相手が築山・土塁を築くと火縄銃の効果は激減する[28]。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激励していたといわれる(『当代記』)[29]。 大砲も使い、塙直之が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけ戦果をあげた(本町橋の夜襲戦)。
和議
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徳川方は豊臣方の買占めによる兵糧不足があり[注釈 9]、真冬の陣でもあったため、12月3日より織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行っている。8日・12日にも有楽斎と大野治長が本多正純、後藤光次と講和について書を交わしている。 15日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、篭城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されるが、家康はこれを拒否する。
豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・陣屋などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中し、8人とも死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、凄惨な光景を見て和議に応ずることを決める(16日)。
朝廷から後陽成上皇の命により、17日に武家伝奏の広橋兼勝と三条西実条を使者として、家康に和議を勧告した。家康は朝廷の介入を許さず、これも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めた[注釈 10]。
交渉は18日より徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、家康側室の阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である忠高の義母常高院との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。
講和内容は豊臣家側の条件として
- 本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること。
- 淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。
が提出され、これに対し徳川家が
- 秀頼の身の安全と本領の安堵。
- 城中諸士についての不問。
を約束することで和議は成立。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくてよいことも決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある[注釈 11])。
堀の埋立
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和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。
城割(城の破却)は古来行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり土塁の角を崩すだけ、城郭の一部の破壊については外周の外堀だけを埋めるという儀礼的なものだった。しかし徳川側は松平忠明・本多忠政・本多康紀を普請奉行とし、家康の名代である本多正純・成瀬正成・安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を全て埋めた後、一月より二の丸も埋め立て始めた。二の丸の埋め立てについては相当手間取ったらしく、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行した。講和後、駿府に帰る道中家康は埋め立ての進展について何度も尋ねている。工事は23日には完了し、諸大名は帰国の途に就いた。この際、門や櫓も破壊されている。
幕府方は「惣」の文字を「すべて」の意味に曲解し、強硬的に内堀まで埋め立てる卑劣な手段を使ったとされてきたが、この話は後代に記された書物にしか記載されておらず、当時の第一次史料の中には確認できない。さらに、この工事に関係した伊達政宗・細川忠利ら諸大名の往復書状などを見ても、埋め立て工事を巡り大坂方との間で揉め事が発生しているような形跡が見つからず「惣構の周囲をめぐる外堀のみならず、二の丸と三の丸を埋め立て、これらの地を壊平するというのは、大坂方も納得していた、幕府と大坂方との当初からの合意に基づくものであった」といえる[31]。
注釈
- ^ このことによって、豊臣家が一大名に転落したとする見解と(今谷明『武家と天皇』)、豊臣家が西国を支配する二重公儀体制になったとする見解がある(笠谷和比古)
- ^ 関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝が関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の近衛信尹が関白に任じられている。
- ^ 2人の応対や礼法などを分析し、この会見について秀頼が家康に臣従させられた(今谷明、本多隆成、渡邊大門)、対等な立場での会見であった(笠谷和比古)と両方の見解がある。
- ^ これをもって秀頼の臣従は成っていないとする見解(笠谷和比古)と、秀頼を慮りつつ孤立化を図ったとする解釈がある(渡邊大門)。
- ^ 慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕藩体制の外にあり、幕府の制定した法令には縛られないというのが豊臣側の論理である。
- ^ また、家康は林羅山に湯武放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩したといわれているが[4]、この時期の林羅山は家康に対して大きな発言権はないとする近年の研究もある[5]
- ^ 接収米の内訳は福島正則分八万石、徳川家分三万石(ただし、接収を免れたという説もある)、諸大名分三万石、商人からの買米二万石。
- ^ この軍議が実際にこの内容で行われたかどうかどうか、行われたとすればいつかについてははっきりしない。ただ、浪人衆入城が10月6日、同日に家康より伏見へ出陣を命じられた近畿の諸大名が現地に着いたのが16日なので、浪人衆が唱えたとされる策は現実性は乏しい(また、伏見城には平時より城代松平定勝や大番2組等が詰めている)
- ^ ただし、11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じているので、徳川方の兵糧不足は一時的なものと思われる
- ^ この時、家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される禁中並公家諸法度の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる[30]。
- ^ 大名や家康近臣、宣教師の記録には二の丸破壊の記述があり、当代記や複数の覚書には二の丸破壊は記されていない
- ^ 現在の大阪城公園内には天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城・焼失後に江戸幕府が再建した際に縄張りを改めており、豊臣時代のものとは位置に若干の相違がある。
出典
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- ^ “大坂の陣 オランダに記録 東インド会社駐在員の書簡”. 日本経済新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
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