大坂の陣
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端緒
豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍の指揮を執り三成ら西軍を撃破する。家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(いわゆる太閤直轄地)を東軍への恩賞という形で全国にあった220万石のうちほぼ4分の3を削減した。これにより、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた[注釈 1]。なお、豊臣領三国のほか、徳川国奉行設置国の伊勢国と備中国に豊臣直臣団の知行地が所在した[1]。
慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸城を始め普請事業を行うなど、政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり、別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分することを考え始めたという。
同年7月、家康の三男・徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。
慶長10年(1605年)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍の指揮を執り上洛した。
同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼は右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下の執政が豊臣家になく徳川家が世襲すことを全国に示したものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており[2]、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが[注釈 2]、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった[3]。
5月8日、家康は秀頼に対し臣下の礼を取るように、高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は六男の松平忠輝を大坂に遣わし、融和に努めている[3]。
慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇の即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する(二条城会見)[注釈 3][3]。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。
慶長17年(1612年)、前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない[注釈 4]。
二条城の会見後の慶長16年(1611年)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614年)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、豊臣家は幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり[注釈 5]、兵糧や浪人を集めだし、さらには前田家と関係を構築しようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。
豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教勢力との接触は両軍ともに存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる[注釈 6]。
方広寺鐘銘事件
片桐且元の追放
鐘銘事件の弁明のために駿府に派遣されていた片桐且元が大坂に帰還すると、大野治房や渡辺糺から家康との内通を疑われるようになった。9月23日には織田信雄から暗殺計画の存在を知らされた且元は、屋敷に籠もり防備を固めた[6]。秀頼と淀殿は両者の調停を行うとともに且元に武装解除を命じたが、織田長益など近隣の屋敷での武装が開始されていたため、且元は応じなかった[7]。9月27日、秀頼は且元に寺に入って隠居するよう命じて執政の任を解き、10月1日に且元は配下の兵を率いて茨木城に退去した[8]。大坂方は家康に敵対するつもりはないと弁明したが、家康は且元罷免の報を受けて激怒した[9]。江戸方・大坂ともにすでに戦になることは明白であると受け止められるようになり、大坂城からは織田信雄・織田信則・石川貞政などの親族衆や重臣も退去していった[10]。
注釈
- ^ このことによって、豊臣家が一大名に転落したとする見解と(今谷明『武家と天皇』)、豊臣家が西国を支配する二重公儀体制になったとする見解がある(笠谷和比古)
- ^ 関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝が関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の近衛信尹が関白に任じられている。
- ^ 2人の応対や礼法などを分析し、この会見について秀頼が家康に臣従させられた(今谷明、本多隆成、渡邊大門)、対等な立場での会見であった(笠谷和比古)と両方の見解がある。
- ^ これをもって秀頼の臣従は成っていないとする見解(笠谷和比古)と、秀頼を慮りつつ孤立化を図ったとする解釈がある(渡邊大門)。
- ^ 慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕藩体制の外にあり、幕府の制定した法令には縛られないというのが豊臣側の論理である。
- ^ また、家康は林羅山に湯武放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩したといわれているが[4]、この時期の林羅山は家康に対して大きな発言権はないとする近年の研究もある[5]
- ^ 接収米の内訳は福島正則分八万石、徳川家分三万石(ただし、接収を免れたという説もある)、諸大名分三万石、商人からの買米二万石。
- ^ この軍議が実際にこの内容で行われたかどうかどうか、行われたとすればいつかについてははっきりしない。ただ、浪人衆入城が10月6日、同日に家康より伏見へ出陣を命じられた近畿の諸大名が現地に着いたのが16日なので、浪人衆が唱えたとされる策は現実性は乏しい(また、伏見城には平時より城代松平定勝や大番2組等が詰めている)
- ^ ただし、11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じているので、徳川方の兵糧不足は一時的なものと思われる
- ^ この時、家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される禁中並公家諸法度の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる[30]。
- ^ 大名や家康近臣、宣教師の記録には二の丸破壊の記述があり、当代記や複数の覚書には二の丸破壊は記されていない
- ^ 現在の大阪城公園内には天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城・焼失後に江戸幕府が再建した際に縄張りを改めており、豊臣時代のものとは位置に若干の相違がある。
出典
- ^ 笠谷 2007, p. 180.
- ^ 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』)、『義演准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の僧録は西笑承兌)など。
- ^ a b c 渡邊 2012, pp. 33–65
- ^ 笠谷 2007, pp. 204–215
- ^ 渡邊 2012, pp. 68–82
- ^ 黒田基樹, 2017 & Kindle版、位置No.全3159中 1629-1663 / 52-53%.
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- ^ 福田 2016.
- ^ 橋本 2002, pp. 551–555.
- ^ 大日本史料 12編16冊575頁
- ^ 大日本史料 12編16冊600頁
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- ^ 大日本史料 12編16冊783頁
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- ^ 大日本史料 12編16冊809頁
- ^ 大日本史料 12編16冊810頁
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- ^ 大日本史料 12編16冊908頁
- ^ 宇田川武久『真説鉄砲伝来』平凡社、2006年。
- ^ 大日本史料 12編16冊754頁
- ^ 田端 2003.
- ^ 橋本 2002, pp. 541–543.
- ^ 笠谷 2007, pp. 239–241.
- ^ 近藤瓶城編『続史籍集覧 第8冊』「駿河土産 巻5」太閤に大角与左衛門と言者成立之事、2017年11月25日閲覧。
- ^ a b 『徳川実紀 第1編』「東照宮御実紀附録 巻16」、p. 273、2017年11月25日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』2016年9月22日朝刊34面に掲載された記事。
- ^ 大坂夏の陣を記した新史料、松本で発見 落城後も緊迫
- ^ 「古田織部」『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- ^ 渡邊 2018.
- ^ 磯田道史『日本史の内幕』〈中公新書〉2017年、80-85頁。
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- ^ “徳川宗家19代目・徳川家広「『元和偃武』の本当の意味とは?」”. AERA. 朝日新聞出版 (2016年6月12日). 2017年12月29日閲覧。
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- ^ 『忠昌様大坂ニ而御戦功有増』(『松平文庫』、福井県立図書館所蔵)
- ^ 「真田幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見」読売新聞、2013年2月25日付
- ^ 丸島和洋『真田四代と信繁』〈平凡社新書〉2015年、251-252頁。
- ^ 小林計一郎 著「日本一の兵 真田幸村」、小林計一郎 編『決定版 真田幸村と真田一族のすべて』KADOKAWA、2015年、164頁。
- ^ 日本経済新聞堺支局長 原明彦 (2012年9月1日). “大阪・堺に「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説”. 日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西. 日本経済新聞. 2016年1月14日閲覧。
- ^ “駐日オランダ人が「大坂の陣」を記録 「寝返った大名が秀頼に落とされた」 日文研、オランダの大学と共同調査”. 産経新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “大坂の陣 オランダに記録 東インド会社駐在員の書簡”. 日本経済新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “大坂の陣:迫真ルポ 秀頼が裏切り者を城壁から突き落とす”. 毎日新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ “「秀頼に落とされ死んだ」大坂の陣、オランダで新文書”. 朝日新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
- ^ a b c 「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級毎日新聞、2018年4月4日
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