ウマイヤ朝 ウマイヤ朝の概要

ウマイヤ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/05 22:51 UTC 版)

ウマイヤ朝
正統カリフ
東ローマ帝国
西ゴート王国
661年 - 750年 アッバース朝
後ウマイヤ朝
サラセンの国旗
(国旗)
サラセンの位置
公用語 アラビア語
首都 ダマスカス
カリフ
661年 - 680年 ムアーウィヤ (初代)
744年 - 750年 マルワーン2世 (最後)
変遷
成立 661年
滅亡 750年

概要

サラセン帝国(ただしサラセン帝国はかつてのヨーロッパでの呼称)、大食での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。

イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督ムアーウィヤが、661年に自らカリフとなることにより成立した政権。都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年アッバース朝によって滅ぼされるが、王族のひとりアブド・アッラフマーン1世イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。

カリフ位の世襲制を採用した最初の王朝形の政権であり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家の統治原理とする一方、非アラブ人はズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせるアラブ人至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

歴史

イスラム世界の領土拡大
  ムハンマド下における領土拡大, 622–632
  正統カリフ時代における領土拡大, 632–661
  ウマイヤ朝時代における領土拡大, 661–750
預言者ムハンマドの時代はアラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った。

草創期:ムアーウィヤの時代

630年メッカの指導者として預言者ムハンマドと対立したウマイヤ家の当主アブー・スフヤーン英語版は、メッカ市民に抵抗を止めさせムスリム軍に降服してメッカの無血開城を導き、ムスリムとなってムハンマドに従った。アブー・スフヤーンはその後のムハンマドの戦役にいくつか参加し、息子のヤズィード英語版ムアーウィヤはムハンマドの側近の書記として近侍し活躍した。

634年正統カリフアブー・バクルの時代になって対東ローマ戦線におけるシリア方面軍司令のひとりとしてヤズィードが派遣され、ムアーウィヤもこれに同行したが、639年にシリア一帯で流行したという悪疫によって先任のシリア総督アブー・ウバイダらシリア方面軍の将卒の多くが病死し、次代の正統カリフ・ウマルはまずヤズィードに次代総督を任せた。しかし、同年のカエサリア遠征中にそのヤズィードもダマスクスで病死し、ウマルはカエサリアの包囲戦を任されていた弟のムアーウィヤに改めてシリア総督職を命じた。

656年に同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンメディナでの暴動で殺害された。ムアーウィヤはそれの責任と血族としての報復の権利を求めて、クーファで第4代カリフに即位したアリーと対立し、スィッフィーンの戦いなど軍事衝突にまで発展した。661年、ムアーウィヤはアリーがハワーリジュ派によって暗殺されたことによって、イスラーム世界唯一のカリフとなり、ダマスクスにて忠誠の誓い(バイア)を受けて正式にカリフとして承認され、ウマイヤ朝を創始した。

ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。攻撃対象はサーサーン朝との抗争で衰弱していた東ローマ帝国であった。

第二次内乱

ムアーウィヤ死後、ヤズィード1世がカリフとなった。第二次内乱英語版680年 - 692年)の始まりである。この第二次フィトナは、シーア派によるウマイヤ家への挑戦とアブドゥッラー・イブン・アッズバイルによるウマイヤ家への挑戦の二段階に分けられる。

ヤズィード1世即位直後の680年10月10日カルバラーの悲劇という事件が起こった[1]。アリーの次男フサインシーア派クーファ市民と、反ウマイヤ家を掲げて行動を起こそうとするが、行動は事前に気づかれ、クーファ市民はフサインと共に行動を起こすことができず、メッカからクーファのシーア派と共に決起するためにやって来ていたフサイン軍七十余名は、ユーフラテス川の手前で待ちかまえていたウマイヤ朝軍4,000の圧倒的な数の差の前に敗れた[1]。このフサインの殉教は、シーア派にとって大きな意味を持つ。フサインの殉教は、シーア派にとって、どんなに悔やんでも悔やみきれない背信行為である一方で、スンナ派カリフに対する復讐の念がやがて、ウマイヤ朝末期の反ウマイヤ家運動において結実する[2]。フサインの殉教の日は、その後、彼の死を悼むアーシューラーの日となった[3]

683年、ヤズィード1世が死亡した。ヤズィードの後を息子のムアーウィヤが継いだものの、そのムアーウィヤも数十日で死亡したことで、ウマイヤ朝をめぐる情勢が大きく変化した。第二次フィトナの第二段階である。メッカのイブン・アッズバイル(初代カリフ、アブー・バクルの長女の子)はカリフを宣言し、イラクやエジプトの民からバイア(忠誠)を受けた[4]685年には、イラクのクーファで、シーア派のムフタール英語版が、アリーの子で、フサインの異母兄弟にあたるムハンマド英語版マフディー(救世主)にまつりあげてフサインの復讐を掲げ、南イラク一帯を勢力範囲にした[4]。ウマイヤ朝内部は、三者の鼎立状態となったものの、しかし、こちらはイブン・アッズバイルの弟であるムスアブが鎮圧した[4]

一方、ムアーウィヤ2世、マルワーン1世と短命のカリフが続いたウマイヤ家では、アブドゥルマリク685年、第5代カリフとなった。アブドゥルマリクのカリフの最初の仕事がヒジャース地方、イラク、エジプトで勢力を蓄えていたイブン・アッズバイルの討伐であった。692年、アブドゥルマリクは、ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版を討伐軍の司令官に任命した[5]。ハッジャージュは、12,000人の軍隊を持って、メッカを包囲した(メッカ包囲戦英語版)。7ヶ月の包囲の末、ハッジャージュはメッカを攻略し、アッズバイルの一族はすべて殺され、ウマイヤ朝の再統一が完成した[5]

全盛期:アブドゥルマリクの時代

アブドゥルマリクの時代には、アラビア語の公用化とアラブ貨幣の発行により、中央集権化が進んだ。アッズバイル討伐で功績をなしたハッジャージュがクーファ総督に任命された。ハッジャージュのイラク統治は厳しく、イラク社会の治安は一定度、回復したと考えられる[6]。ハッジャージュは、反ウマイヤ家のイラクを平定後、クタイバ・イブン=ムスリムを東方遠征の司令官に任命した[7]。クタイバは、ブハラサマルカンドを征服し、フェルガナ地方まで進出、中央アジアにイスラームが広がるもととなった[7]トランスオクシアナ征服英語版)。

一方、西では709年までにマグリブ(北アフリカ)を東ローマ帝国から奪った(マグリブ征服英語版)。将軍ムーサー=イブン・ヌサイール英語版は、イフリーキヤカイラワーンを拠点に、ベルベル人の住むモロッコを平定し[7]、ムーサー配下のターリク・イブン・ズィヤードが、イベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼした(グアダレーテの戦い英語版)。ピレネー山脈を越えフランク王国領内に入ると、フランク王国の迎撃軍と衝突してトゥール・ポワティエ間の戦いとなったが、アル・ガーフィキー英語版が戦死したウマイヤ軍は退却し、ピレネー山脈の南側まで戻った。一方、674年から東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを連年包囲したが攻略できず、キリスト教勢力に対する攻勢は止まった。

この後、長い間地中海はイスラームの海となる。こうして東へ西へとウマイヤ朝は拡大してゆき、ワリード1世の治世である8世紀初頭に最大領域となった。

最後の輝きと滅亡

マワーリー問題

アブドゥルマリクは、ウマイヤ朝を再統一したが、ウマイヤ朝の版図で、新たな問題が生まれていた。イスラームの教義で、ムスリムは十分の一税(ウシュル)のみを租税として支払うものの、ジズヤとハラージュが免除されており、異教徒は、重税の負担を余儀なくされた[8]。そのため、異教徒は、次々とイスラームへと改宗し、租税の負担を回避するために、都市へと流入した[8]。異教徒からイスラームへ改宗した人々をマワーリーと呼ぶ。マワーリーの都市の流入は国庫の歳入の減少を意味した[8]

第8代カリフであるウマル2世(在位:717年-720年)は、マワーリーの問題に対処するために、マワーリーの不満を解消するための改革を実施した。その内容は、以下の通りである[9]

  1. 民族のいかんを問わず、イスラームへの改宗を自由に認めた。
  2. ムスリムのミスル(都市)への自由を認めた。
  3. ムスリムには、一切租税が課されず、宗教的な義務としてのサダカを課した。
  4. ミスルに移住したマワーリーを官庁に登録し、俸給(アター)を支給した。
  5. 農村にとどまったマワーリーには従来通りの租税を徴収した。
  6. ヒジュラ暦100年(718年8月3日から719年7月23日)以後、耕地の販売を禁止した。

しかし、ウマル2世の統治が短かったこともあり、ウマル2世の改革は、ほとんど効果が無かったと考えられる[10]。マワーリーは、都市への自由を獲得したものの、それで生計が立てられるわけでもなかった。農民には、従来通りの租税が課せられたわけで、イスラームの教義である「神の前での平等」とは明らかに矛盾した状況は変わらなかった[10]

部族対立の潜在化と地方の反乱

アブドゥルマリクの第4子で、第8代カリフとなったヒシャーム(在位:724年-743年)の時代は、ウマイヤ朝最後の輝きを見せた時代である。しかしながら、ヒシャームの時代でも、マワーリーの問題が解決したわけでもなく、さらには、アラブ人の部族対立が明らかとなった時代であった。

時代は、ウマイヤ朝草創期にさかのぼる。アラビア半島からイラクへと進出したアラブ人の主力は、北アラブの出身であり、その中でもカイス族が最有力であった[11]。一方で、シリア移住したアラブ人の出身は、南アラブの出身であり、その中でもイエメン族が有力であった[11]。ムアーウィヤの権力基盤は、イエメン族に置いていた[11]。一方、時代は下り、アブドゥルマリクとハッジャージュはカイス族を重用した[11]。ヒシャームは、イラクに基盤を置くカイス族とは距離を置き、カイス族出身のイラク総督を解任し、その後任には、イエメン族を充てた[11]。カイス族とイエメン族の対立は、カリフ位をめぐる権力闘争、重要な行政職の獲得競争と深くかかわるようになったのである[11]

ヒシャームの時代は、地方で反乱も起きた。734年ホラーサーン地方に進出したアラブ軍が、西突厥蘇禄と結び、ウマイヤ朝に反旗を翻した[11]。ホラーサーンに進出したアラブ人の主力は、イラクのバスラからイランに定住したアラブ人であり、彼らは、ムスリムであれば当然であるアラブ人の特権が認められることは無く、不満が鬱積していた[12]。この反乱自体はすぐに鎮圧されたものの、不満が解消されることは無かった[11]

シーア派の不満とアッバース家

アブー・ムスリムの進軍ルート。緑がウマイヤ朝の版図。

680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド英語版こそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は、692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル・ハナフィーヤ英語版は、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル・ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた[13]。カイサーン派は、イブン・アル・ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシム英語版(? - 716年[14])がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた[15]。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマド英語版に伝えられたと主張するグループが登場した[15]

アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した[15]747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した[16]。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した[16]。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アル・ターイ英語版は、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した[17]

749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した[17]750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モスル近郊のザーブ川英語版に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い英語版)。ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍を破ったアッバース軍は、これにより、ウマイヤ朝の滅亡を確定させた(アッバース革命)。

ウマイヤ家のほとんどが、アッバース家による追及で殺害された。その中で、第10代カリフ・ヒシャームの孫であるアブド・アッラフマーン1世がその人で、シリアからモロッコに逃れた彼は、後ウマイヤ朝を建国することとなる。

年譜


脚注
  1. ^ a b 佐藤 2008, p. 116.
  2. ^ 佐藤 2008, p. 117.
  3. ^ 佐藤 2008, p. 117-119.
  4. ^ a b c 佐藤 2008, p. 120.
  5. ^ a b 佐藤 2008, p. 121.
  6. ^ 佐藤 2008, p. 123.
  7. ^ a b c 佐藤 2008, p. 124.
  8. ^ a b c 佐藤 2008, p. 136.
  9. ^ 佐藤 2008, pp. 138-139.
  10. ^ a b 佐藤 2008, p. 140.
  11. ^ a b c d e f g h 佐藤 2008, p. 141.
  12. ^ 佐藤 2008, pp. 141-142.
  13. ^ 佐藤 2008, p. 143.
  14. ^ Shaban, M.A., The 'Abbāsid Revolution (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 139. ISBN 978-0521295345
  15. ^ a b c 佐藤 2008, p. 144.
  16. ^ a b 佐藤 2008, p. 145.
  17. ^ a b 佐藤 2008, p. 146.
  18. ^ a b c d 佐藤 2008, p. 125.
  19. ^ 佐藤 2008.


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