ウマイヤ朝 ウマイヤ朝の概要

ウマイヤ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/04/11 16:13 UTC 版)

ウマイヤ朝
正統カリフ
東ローマ帝国
西ゴート王国
661年 - 750年 アッバース朝
後ウマイヤ朝
サラセンの国旗
(国旗)
サラセンの位置
公用語 アラビア語
首都 ダマスカス
カリフ
661年 - 680年 ムアーウィヤ (初代)
744年 - 750年 マルワーン2世 (最後)
変遷
成立 661年
滅亡 750年

概要

サラセン帝国(ただしサラセン帝国はかつてのヨーロッパでの呼称)、大食での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。

イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において最終的に政権を獲得したシリア総督ムアーウィヤが、661年に自らカリフとなることにより成立した政権。都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、カリフ位がウマイヤ家の一族によって世襲されたため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年アッバース朝によって滅ぼされるが、王族のひとりアブド・アッラフマーン1世イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。

カリフ位の世襲制を採用した最初の王朝形の政権であり、ムスリムであるアラブ人による集団的な異民族支配を国家の統治原理とする一方、非アラブ人はズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせるアラブ人至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

歴史

預言者ムハンマドの時代はアラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った

草創期:ムアーウィヤの時代

630年メッカの指導者として預言者ムハンマドと対立したウマイヤ家の当主アブー・スフヤーン英語版は、メッカ市民に抵抗を止めさせムスリム軍に降服してメッカの無血開城を導き、ムスリムとなってムハンマドに従った。アブー・スフヤーンはその後のムハンマドの戦役にいくつか参加し、息子のヤズィード英語版ムアーウィヤはムハンマドの側近の書記として近侍し活躍した。

634年正統カリフアブー・バクルの時代になって対東ローマ戦線におけるシリア方面軍司令のひとりとしてヤズィードが派遣され、ムアーウィヤもこれに同行したが、639年にシリア一帯で流行したという悪疫によって先任のシリア総督アブー・ウバイダらシリア方面軍の将卒の多くが病死し、次代の正統カリフ・ウマルはまずヤズィードに次代総督を任せた。しかし、同年のカエサリア遠征中にそのヤズィードもダマスクスで病死し、ウマルはカエサリアの包囲戦を任されていた弟のムアーウィヤに改めてシリア総督職を命じた。

656年に同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンメディナでの暴動で殺害された。ムアーウィヤはそれの責任と血族としての報復の権利を求めて、クーファで第4代カリフに即位したアリーと対立し、スィッフィーンの戦いなど軍事衝突にまで発展した。661年、ムアーウィヤはアリーがハワーリジュ派によって暗殺されたことによって、イスラーム世界唯一のカリフとなり、ダマスクスにて忠誠の誓い(バイア)を受けて正式にカリフとして承認され、ウマイヤ朝を創始した。

ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。攻撃対象はサーサーン朝との抗争で衰弱していた東ローマ帝国であった。

ムアーウィヤ死後、ヤズィード1世の時代にカルバラーの悲劇という事件がおこる。アリーの次男フサインシーア派クーファ市民と、反ウマイヤ家を掲げて行動を起こそうとするが、行動は事前に気づかれ、クーファ市民はフサインと共に行動を起こすことができず、メッカからクーファのシーア派と共に決起するためにやって来ていたフサイン軍七十余名は、ユーフラテス川の手前で待ちかまえていたウマイヤ朝軍4000の圧倒的な数の差の前に敗れた。このフサインの殉教は、シーア派にとって大きな意味を持つ。

その後、相次ぐカリフの死去の中、680年第二次内乱英語版680年 - 692年)が起きる。メッカのイブン・アッズバイル(初代カリフ、アブー・バクルの長女の子)はカリフを宣言して一時広大な領土を保有し、イラクのクーファではシーア派のムフタールが、アリーの子のムハンマドをマフディー(救世主)にまつりあげてフサインの復讐を掲げ、南イラク一帯を勢力範囲にした。しかし、こちらはイブン・アッズバイル側に鎮圧され、イブン・アッズバイルもアブドゥルマリクの任命した司令官ハッジャージュ・ブン・ユースフにより討たれた。

第二次内乱後、ハッジャージュによるイラク統治で治安が回復されていったが、それは厳しく激しいもので、特にイラクのシーア派は非常に厳しい状況に置かれた。

全盛期:アブドゥルマリクの時代

アブドゥルマリクの時代には、アラビア語の公用化とアラブ貨幣の発行により、中央集権化が進んだ。アブドゥルマリクが反ウマイヤ家のイラクを平定後、東ではクタイバブハラサマルカンドを征服し、フェルガナ地方まで進出、中央アジアにイスラームが広がるもととなった(トランスオクシアナ征服英語版)。

西では709年までにマグリブ(北アフリカ)を東ローマ帝国から奪い(マグリブ征服英語版)、イベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼした(グアダレーテの戦い英語版)。ピレネー山脈を越えフランク王国領内に入ると、フランク王国の迎撃軍と衝突してトゥール・ポワティエ間の戦いとなったが、アル・ガーフィキー英語版が戦死したウマイヤ軍は退却し、ピレネー山脈の南側まで戻った。一方、674年から東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを連年包囲したが攻略できず、キリスト教勢力に対する攻勢は止まった。

この後、長い間地中海はイスラームの海となる。こうして東へ西へとウマイヤ朝は拡大してゆき、ワリード1世の治世である8世紀初頭に最大領域となった。

滅亡の原因

アラブの部族対立、地方の反乱などが続く中、税の問題で不満を持つマワーリー、ムアーウィヤのカリフ位を否定し反ウマイヤ家を掲げるシーア派、ホラーサーン人(移住したアラブ人)などの協力を得たアッバース家の反ウマイヤ家運動(アッバース革命)により、8世紀中頃にウマイヤ朝は滅亡を迎えた。

年譜




「ウマイヤ朝」の続きの解説一覧





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

ウマイヤ朝に関連した本

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「ウマイヤ朝」の関連用語

ウマイヤ朝のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す




ウマイヤ朝のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのウマイヤ朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2014 Weblio RSS