橋の歴史
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「宮城県道218号大島浪板線」の記事における「橋の歴史」の解説
2011年(平成23年)10月20日に宮城県庁で開催された第1回県道大島浪板線大島架橋設計検討委員会で、橋梁形式を中路アーチ橋にすることが決定された。2012年(平成24年)4月に用地買収が始まり、2013年(平成25年)1月23日に大島架橋事業起工式が、2014年(平成26年)11月15日に橋梁本体の起工式が行われた。また、本体工事起工式では施設の名称と愛称名が発表された。 一般県道大島浪板線 - 愛称:気仙沼大島龍宮海道(けせんぬま おおしま りゅうぐうかいどう) 大島架橋 - 気仙沼大島大橋(けせんぬま おおしま おおはし)、愛称:鶴亀大橋(つるかめ おおはし) 二ノ浜1号トンネル - 浦島1号トンネル 二ノ浜2号トンネル - 浦島2号トンネル 磯草3号トンネル - 乙姫1号トンネル 磯草4号トンネル - 乙姫2号トンネル 磯草5号トンネル - 乙姫3号トンネル 2017年(平成29年)3月29日12時30分、気仙沼大島大橋の架設が完了、10月17日に本体工事が終了した。2019年(平成31年)1月4日、宮城県から同年4月7日15時に供用開始することが発表された。 なお、それまで大島の暮らしを本土と繋いできた大島航路(気仙沼港と大島の間を運航する一般旅客船定期航路で、大島汽船が運営してきた)は、大橋の開通に合わせて、開通日の気仙沼港発19:00の最終便をもって1906年(明治39年)以来110年以上に亘る定期航路の歴史に幕を下ろした。
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橋の歴史
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最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1693年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。 橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。 「初雪やかけかかりたる橋の上」 「ありがたやいただいて踏むはしの霜」 新大橋は非常に何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。 そのため、維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」とされた。 その後、1885年(明治18年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、1912年(明治45年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。 戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていた。1977年(昭和52年)に現在の橋に架け替えられた。 旧橋は前記のようなデザインを有する貴重な建築物として、愛知県犬山市の博物館明治村に中央区側にあたる全体の8分の1、約25メートルが部分的に移築されて保存されており、2004年(平成16年)には「明治村隅田川新大橋」の名称で国の登録有形文化財となっている。
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橋の歴史
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大正12年(1923年)の関東大震災後の復興事業により、大規模な区画整理が行われた際に、当時橋のなかった本湊町と対岸の越前堀一丁目との間に計画された。 しかし、地震災害により破損した多くの橋を改架したために、東京市は予算が乏しくなっていた。そこで、明治37年(1904年)に隅田川に架橋され、地震被災によって改架された両国橋の3連トラス橋のうち、損害の少なかった中央部分を補強して再利用し、移設した。現地に合わせた結果、原型の両国橋と比べて幅で1/3程度に縮小し、高さも下げられている。 結果的に明治の鉄橋が現代に残ることとなり、都内に残る鋼鉄トラス橋のうち、道路橋としては最古であり、人道橋としても江東区に移設された八幡橋(旧弾正橋)に次いで二番目に古い。なお、全国でも6番目に古い鋼鉄トラス橋であり、中央区民有形文化財に指定されている。 こうした土木建築史の経緯を受けて、2016年度、土木学会選奨土木遺産に認定された。
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橋の歴史
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明治11年(1878年)11月に京橋区の楓川に、アメリカ人技師スクワイヤー・ウイップルの発明した形式を元に工部省赤羽分局により製作、架橋された。当時は橋幅は9.1m(5間)あったと記録に残る。架設経費は4058円。付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋と称された。当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路であったので、文明開化のシンボル的存在の鉄橋であった。 しかし、大正2年(1912年)の市区改正事業により、北側に新しく弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、さらに大正12年(1923年)の関東大震災後の震災復興計画によって廃橋となったが、その由緒を惜しんで現在地に移設。当時、橋下は八幡堀という河川であったが、後に埋め立てられ、現在のような人道陸橋となった。 昭和52年(1977年)6月27日に国の重要文化財に指定、また平成元年(1989年)には日本ではじめて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈られた。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 02:55 UTC 版)
最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。 架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。 伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたと言われる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱を使って綱引きをして、吉凶を占う行事があった。 架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。 千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ。なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。 その後、明治19年(1886年)に 二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 06:02 UTC 版)
もともと「野新田(やしんでん)の渡し」(馬場の渡しとも)という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中州状に孤立した付近の交通路として利用されていた。1939年(昭和14年)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て1961年(昭和36年)3月に現在の橋に架け替えられた。珍しいA字型をした橋脚は、木橋時代の橋脚を模したものである。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 06:01 UTC 版)
もともと現在の橋の上流300メートルほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。1925年(大正14年)、この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって1960年(昭和35年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。なお旧江北橋はすぐに撤去されたが、旧豊島橋は1967年(昭和42年)まで存在していた。 2代目の鉄橋は1995年(平成7年)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て2001年(平成13年)に現在の橋となった。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:00 UTC 版)
架橋前は付近に「小台の渡し(尾久の渡しとも称された)」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。小台橋が最初に架橋されたのは昭和8年(1933年)で、関東大震災後の都市復興事業により架橋された。いわゆる「震災復興橋梁」には数えられないが、復興都市計画に基づいて架橋されたものである。その後老朽化によって、平成4年(1992年)に現在の橋に架け替えられた。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 14:53 UTC 版)
この場所に最初に橋が架けられたのは江戸時代の中期、1698年(元禄11年)とされる。北詰には船手番所が置かれ、諸国廻船が往来する江戸水運の要所に位置していた。河岸には土蔵が建ち並び、陸揚げされた荷駄が行き交う活気に満ちた界隈であった。また、吉良邸への討ち入りを果たした赤穂浪士は永代橋で大川を渡ったのち、この橋を経て泉岳寺をめざしたと伝えられる。乙女橋とも呼ばれていた。 その後、幾度かの落橋・焼失、再架を経て、1903年(明治36年)1月に長22間・幅4間の下路式プラットトラス橋が架けられ、初めて鉄橋化。1923年(大正12年)の関東大震災で落橋し、震災復興橋梁としての現在の姿に至る。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 14:14 UTC 版)
エアリアル橋はセントルイス川の河口に形成された砂州、ミネソタ・ポイント(別名パーク・ポイント)に建設された短い運河に架かっている。スペリオル湖とセントルイス川とをつなぐこの運河は1870年から翌1871年にかけて建設された。セントルイス川の自然の河口は運河の南東約11キロメートルにあり、ミネソタ州とウィスコンシン州の州境となっていた。この運河の開削により、砂州は陸から事実上孤立した島となったため、陸地からの交通手段を建設する必要があった。いくつかの方法が試行されたが、ダルース地域独特の気候のためにいずれも成功しなかった。フェリーは夏場には運航することができたが、冬になると凍結のため使用できなかった。歩行者用の吊橋は、スペリオル湖からの強風のためによく揺れ、安全性に乏しかった。
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橋の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/07 06:26 UTC 版)
江戸時代初期の「武州豊島郡江戸庄図」に既に元となる木橋の記載が見られる。 北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。 木橋としては1873年(明治6年)の架け替えが最後で、当時の記録には橋長十四間、幅員三間とある。1922年(大正11年)6月に東京市道路局によって花崗岩張りのRCアーチ橋として改架された。橋長43 m、幅員27 mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電を通す構造で、翌1923年(大正12年)9月の関東大震災にも耐え抜いた。 1963年(昭和38年)12月に首都高速都心環状線の京橋出入口〜呉服橋出入口間が開通した際に、下流側橋詰に呉服橋出入口を設置するために親柱2本を撤去、さらに1973年(昭和48年)には鈑桁橋に改修される際に袖柱4本も撤去、上流側に親柱2本が残るのみとなってしまう。 さらに老朽化と拡幅のために1997年(平成9年)の大改修時に撤去となるところであったが、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産であることが認められ、2002年(平成14年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されることとなった。
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橋の歴史
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「ウェストミンスター橋」の記事における「橋の歴史」の解説
ウェストミンスター橋 ロンドン橋 キングストン パトニー グレーター・ロンドンでの各橋の位置関係 ロンドン橋に最も近い橋は、600年以上ロンドン南西部のキングストン・アポン・テムズ(英語版)(キングストン)に掛けられたもので、ウェストミンスターでは渡し舟が川の両岸を結んでいた。1664年に橋を架ける計画が提案されたが、シティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)や船頭たちの反対に遭った。1722年にも橋の構想が浮上したが、強い反対意見が出された。1729年にパトニー(英語版)に新しい木製の橋・パトニー橋(英語版)が掛けられると、議会はついに1736年にウェストミンスター橋建設を許可した。建設資金は個人資産や宝くじ、譲与金などで賄われ、1739年から1750年にかけて建設された。橋のデザインはスイス人建築家・Charles Labelye[訳語疑問点]が担当した。 この橋は、ウェスト・エンドから南ロンドン(英語版)やサウス・コースト港へ向かう交通の手段として、必要とされていたものだった。この橋が無ければ、ウェスト・エンドからの運送は、混雑したストランド街やニュー・オックスフォード街などを通って、ロンドン橋に向かわなくてはならなかった。 シティ・オブ・ロンドンはウェストミンスター橋に対抗して、1760年から1763年にかけて、ロンドン橋周辺の建物を除いて拡幅する工事を実施した。シティはブラックフライアーズ橋(英語版)の建築も開始し、この橋は1769年に開通した。他にも、キュー橋(英語版)(1759年)、バタシー橋(英語版)(1773年)、リッチモンド橋(英語版)(1777年)などがこの時期に掛けられている。 19世紀中程になると、橋は地盤沈下が顕著となり維持費も高額になっていた。このため、橋の架け替えが計画された。現在の橋はトーマス・ペイジ(英語版)が設計し、1862年5月24日に開通したものである。長さ250m・幅26mで、7つのアーチと細かな鉄細工が特徴のこの橋は、ウェストミンスター宮殿の設計者でもあったチャールズ・バリー(英語版)によってゴシック風細工が施されている。現在では、セントラル・ロンドンのテムズ川に掛かる最も古い橋となっている。 2017年3月22日には、この橋の上で暴走した車が通行人をはね、運転していた男性が国会議事堂の敷地に侵入して40人余りを死傷させるテロ事件が発生した。
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