用地買収
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用地買収(ようちばいしゅう)あるいは用地取得(ようちしゅとく)とは、道路、河川改修、砂防設備、鉄道、電気、ガス、水道などの公共事業のために、起業者が土地を買い取ること。事業のために必要となる土地のことを事業用地という。
- ^ [1]昭和37年6月29日閣議決定
- ^ a b 用地交渉ハンドブック(平成23年3月 国土交通省土地・水資源局総務課公共用地室)
- ^ つまり、公対公の補償。公共事業の施行に伴う公共補償基準要綱(昭和42年2月21日閣議決定)。対して、私人の財産権に対する損失補償(公対民)を「一般補償」と称する。
- ^ 公共施設の設置に起因する日陰により生ずる損害等に係る費用負担について(昭和51年建設事務次官通知)、公共事業に係る工事の施行に起因する水枯渇等により生ずる損害等に係る事務処理要領の制定について(昭和59年建設事務次官通知)など。
- ^ 用地取得のあらまし(国土交通省土地・建設産業局総務課公共用地室)
- ^ 一般財団法人公共用地補償機構 『用地ジャーナル 2001年7月号』 pp. 68-69
- ^ 収用等により土地建物を売ったときの特例(国税庁 タックスアンサー(よくある質問) No.3552)
用地買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:05 UTC 版)
地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した。 かつて行われた名神の用地買収は、地元民から強い抵抗を受けた。地元に直接の利益をもたらさないと思われる高速道路に先祖から受け継いだ大切な土地を取られてはならぬ、という執念があって、「弾丸道路通過絶対反対」という看板が沿道の至る所で押し立てられた。そして、名古屋駅にはむしろ旗がならび、地元民が公団の現地機関や県庁、市役所に押しかけ、打たれた杭は焼かれたり抜かれたりするなどの激しい抵抗に遭った。そのあとに続く東名では、こうした絶対反対という過激な抵抗は少なく、条件闘争がおもだった争点となった。以下、買収事例を挙げる。 高速道路における用地買収では、限られた期間内で大量の土地を一々評価することはできないので、各々の場所から価格を決めるにふさわしい土地を選び、それを標準値として価格の算定を行い、その他の土地については、この標準値を基準として価格決定するプロセスを採用した。よって、買い取る場所によっては価格差が生じ、それが地権者の思い描いた価格と相違する場合は激しい対立が生じた。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じた。それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものであった。ある交渉では、地元民を束ねる用地対策委員長が連日の一般地主の強い突き上げにより過労で倒れ、代わった副委員長も心労によって憔悴はなはだしく、妥結の瞬間に至ってはまさに崩れ落ちるような表情であったという。これが袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った。 先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、租税特別措置法の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく団体調印が完了をみた。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・都立砧公園)と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った。 宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を曳家工法で移転させる事例があったが、氏子側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として土地収用法による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである。 買収地には農地も少なからず存在し、時には農協に斡旋を依頼した。清水市(現・静岡市清水区)内の海岸と山に挟まれた農地の買収では、残り少ない農地を提供する農民の苦悩を嫌というほど味わいながら、それでも農民を説得した用地職員の苦労は並大抵ではなかった。 特異な例として、ある買収予定地が共有地で、複数人(100名や60名等)で一つの土地を所有という事例があった。そこは相続登記がされておらず、その相続を調査すると300人以上となるものが数件あり、その者が北海道から九州まで居場所が散在、中にはアメリカ在住者でベトナム戦争に出兵して居場所が不明という者がおり、土地一つの調印を得るために大変な時間と労力を費やす事になった。一方で、名古屋市とその近辺の自治体は、土地区画整理事業の只中にあって土地が商品化されていることもあり、買収は比較的スムーズであった。 こうした用地買収と工事に伴う補償費だけで工費全体の30パーセント(924億9,300万円)を要した。
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