作家生活
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1950年(昭和25年)、母の親戚を頼り八幡市(現:北九州市八幡東区)へ移る。1956年(昭和31年)、福岡県立八幡中央高校卒業後、八幡製鐵(現:日本製鉄)に就職。1960年(昭和35年)、八幡製鐵労組(労働組合)の活動をはじめ、安保闘争の直前から日本共産党に入党、組合活動を活発化させるが、まもなく共産党を離れ、共産党を批判する小説を書く。1961年(昭和36年)、『大罷業』を『別冊日曜作家』に発表。1964年(昭和39年)に、八幡製鐵を退職。一方で同年、後年の代表作『復讐するは我にあり』のモデルとなった西口彰による連続殺人事件の裁判を一度だけ傍聴している。以後、作家活動に専念する。 同人誌などに小説を書き始め、『新日本文学』や『文學界』に発表。長崎造船の中里喜昭とともに、労働者作家として注目を浴びる。 1967年(昭和42年)、東京都中野区東中野に移り東京での作家生活を始める。1971年(昭和46年)、のちに野坂昭如、中上健次らが足しげく通った新宿ゴールデン街の文壇バー「花の木」の名物ママとなる広田和子と離婚、沖縄へ引っ越して2度目の結婚。コザ市の外人アパートに住み、沖縄復帰闘争の活動家たちとかかわり復帰問題に深く関与した。11月17日の沖縄返還における沖縄返還協定批准阻止闘争による沖縄ゼネストで、作家だからデモの首謀者に違いないと琉球警察に疑われ1972年1月に逮捕される。その後12日間、留置所に勾留されたが無実と判明して釈放された。留置所での様々な犯罪者たちとの出会いが転機となって、犯罪小説にのめり込んでいった。1973年(昭和48年)、2年住んだ沖縄を離れ千葉県市川市に移住。 1978年(昭和53年)7月、銀座の路上で交差点に赤信号停止しているタクシーに乗ろうとしたところ、タクシー乗り場から乗るように言われたことに逆上。タクシーのボンネットに乗り上げて暴れてフロントガラスを破壊したため、築地警察署員に逮捕される。この時、佐木は仲間5人とともにクラブなど2軒でウイスキーボトルを2本近くあけるなど、かなり酒に酔っていた。1979年(昭和54年)、『復讐するは我にあり』が松竹で映画化(監督:今村昌平、主演:緒形拳)され、同年映画賞を独占。佐木の名も広く知られることとなったが、映画化に至る経緯では新聞沙汰になるほどのトラブルが噴出している。 1985年(昭和60年)には、別府3億円保険金殺人事件を題材にしたノンフィクション小説『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)を発表。その後、同事件の被告人(当時、第一審および控訴審で死刑判決を受け上告中)が佐木の連載を読んで、「無罪放免にしてくれるなら」とさまざまな裁判資料を提出。拘置所で佐木と面会した際、被告人は冤罪を主張するも、「無罪になれば保険金が入るから謝礼する」と発言。ところが佐木は「無罪だとはこれっぽっちも思わなかった」ことから、後年被告人は逆恨みの手紙を送っている。その後、被告人は上告中の1989年(平成元年)に死亡し、裁判は公訴棄却によって終結した。 また1987年(昭和62年)5月31日には、富山・長野連続女性誘拐殺人事件を題材としたノンフィクション小説『男の責任 女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)を発表。この著書は、犯人の女MT(1998年に死刑が確定/女性死刑囚)の共犯として起訴された男性(1992年に無罪が確定)の冤罪説に立ち、男性の無実を訴える目的で出版したものである。同事件の刑事裁判の第一審(富山地裁)では、同年の論告求刑公判で、殺害実行犯とされたMTは死刑を、共謀共同正犯とされた男性は無期懲役をそれぞれ求刑されていたが、翌1988年(昭和63年)2月9日、富山地裁はMTを単独犯と認定して死刑に処した一方、男性については「犯行に関与していない」として無罪とする判決を宣告。男性の有罪を主張した検察官と、自身への死刑を不服としたMTが控訴し、控訴審が名古屋高裁金沢支部で続いていた1991年(平成3年)9月5日には、同書を加筆削除し、出版後の経緯を織り込んだ文庫本『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)を出版。控訴審終結後の1992年(平成4年)にはテレビドラマ化され、『実録犯罪史シリーズ』(フジテレビ系列)の「最期のドライブ 富山長野女子高生・OL連続誘拐殺人事件」として放送されたが、1994年(平成6年)9月中旬には犯人MT(当時は上告中)から名誉毀損として、出版元の徳間書店とともに慰謝料500万円を求める民事訴訟を起こされ、2000年(平成12年)に被告(佐木および徳間書店)側の敗訴が確定している。 詳細は「富山・長野連続女性誘拐殺人事件#佐木隆三の著書をめぐる訴訟」を参照
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作家生活
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大学中退後、人類愛善新聞記者、貸本屋、喫茶店、飲食店、椙山女学園大学(名古屋市)集団給食実習室主任などの職業を遍歴。1963年(昭和38年)9月、文藝春秋の第二回オール讀物推理小説新人賞を受賞(このとき西村京太郎も一緒に受賞している)。受賞作品は「野上竜」というペンネームで応募した「凶徒」で、「すなお教」という架空の新興宗教団体の内情を描いた推理小説。審査員の松本清張が強く推して受賞した。 和明は宗教の宗家という出口家の宿命から遠ざかりたいと思い、意識的に教団の外を生きた。しかし王仁三郎への敬愛の気持ちから、王仁三郎のために何かしたいと思い、1968年(昭和43年)から歴史小説『大地の母』の執筆を始める。当初は大本の月刊機関誌『おほもと』に連載(同年6月号から)され、後に書籍化された。 当時は名古屋に住んでいたが、1969年(昭和44年)3月25日、執筆に専念するために妻子と共に亀岡に移住。父母が住む「熊野館」(くまのやかた、王仁三郎が晩年生活していた家)の土蔵を書斎にして執筆生活を送る。取材や調査に、妻・禮子が助手として協力した。 『大地の母』執筆にあたり、大本三代教主の出口直日(和明の伯母にあたる)は「いっさい嘘はいけない。事実を曲げてはいけない。真実だけを書くのやで。大本のみぐるしいところも何も全部さらけ出しなさい。たとえ私のみにくい、汚いところがあっても、それも書かないといけません」と厳しく諭した。
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作家生活
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「レイモンド・チャンドラー」の記事における「作家生活」の解説
大恐慌で経済的に苦しかったため、チャンドラーは文筆の潜在的才能で生計を立てようと決め、E・S・ガードナーのペリー・メイスンものからパルプ・マガジンの小説の書き方を独学で学んだ。1933年にハードボイルド探偵小説の揺籃であったアメリカのパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に18000語の中篇『脅迫者は撃たない(英語版)』(”Blackmailers Don’t Shoot”)が掲載され、デビューする。『脅迫者は撃たない』の執筆には5か月費やした。 1939年発表の処女長編『大いなる眠り』で初登場したフィリップ・マーロウは、ハードボイルド派の中で最も有名な探偵といえる。『大いなる眠り』の執筆には3か月かけた。 1950年、イギリスでの版元ハミッシュ・ハミルトンへの手紙で、なぜパルプ・マガジンを読むようになり、さらに書くようになったかを説明している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} パシフィック・コーストを自動車で行き来していたとき、安くて捨てても惜しくないパルプ・マガジンを読むようになった。女性向け雑誌を読む趣味は全くないのでね。(私がそう言ってよければ)それはブラック・マスク誌の黄金時代で、粗野な面もあるものの、その書きっぷりはかなり力強く正直だと気付いた。そして、小説の書き方を学んで同時に小遣いを稼ぐというのはよい方法かもしれないと思いついた。5カ月かけて18,000語の中編を書き上げ、それを180ドルで売った。それからもかなり不安な時期をすごしたが、私は決して振り返らず前進した。 2作目の長編『さらば愛しき女よ』(1940) はそれぞれ別の脚本で3度映画化された。1944年の『欲望の果て(英語版)』ではディック・パウエルがマーロウを演じた。チャンドラー自身も脚本を依頼されるようになる。ビリー・ワイルダーと共同で脚本を書いた『深夜の告白』(1944) は、ジェームズ・M・ケインの『倍額保険』が原作だった。このフィルム・ノワールの古典は、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。 チャンドラーの単独書き下ろし脚本としては『青い戦慄』(1946) がある。プロデューサーのジョン・ハウスマンによれば、チャンドラーは結末部分を完成させることができず、酒を飲ませてくれたら完成させると約束し、ハウスマンがそれに同意したという。この脚本でもアカデミー賞にノミネートされた。 アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951) でも脚本に参加している。パトリシア・ハイスミスの同名の小説が原作だが、チャンドラーは「ばかばかしいストーリー」と原作を酷評していた。この映画の脚色の際にヒッチコックと衝突し、ヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人に聞こえるように言っていた。ヒッチコックは鼻をつまみながらチャンドラーの草稿脚本を撮影所のゴミ箱に投げ入れたという。しかし、最終的にはチャンドラーの名前が脚本として残っている。 1946年、サンディエゴに程近い海岸沿いのカリフォルニア州ラ・ホヤに引越す。妻シシイは慢性気管支炎で体が衰弱しており、チャンドラーは家事をする合間に執筆していた。『長いお別れ』(1953) を書いた。 1954年12月12日に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『プレイバック』で復帰する。『プレイバック』はユニバーサル・ピクチャーズのために書いた脚本(映画化されず)が元になっている。さらに翌1959年、『プードル・スプリングス物語』の執筆にとりかかるも、冒頭の第4章まで書いたところで亡くなった。同作は1989年、著名なハードボイルド作家であり、チャンドラーの熱心なファンでもあったロバート・B・パーカーが遺族の承諾を得た上で、続きを執筆し完成させた。パーカーは他に『大いなる眠り』の続編『夢を見るかもしれない Perchance to Dream』(1991年)も書いている。 チャンドラーによるマーロウを主人公とする最後の短編は1957年ごろの "The Pencil" で、日本語では「マーロウ最後の事件」となっている。HBOは1983年から1986年にかけて Philip Marlowe, Private Detective というドラマシリーズを放送しており、「マーロウ最後の事件」も1エピソードの原作として使われた。
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作家生活
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芥川賞候補作となった「光の中に」以降、「土城廊」「箕子林」「天馬」「草探し」などを相次いで発表し、一年足らずの間に日本における民族主義作家としての地歩を固めた。プロレタリア文学が後退する時勢の中にあって、朝鮮文学は朝鮮語による表記がある程度統治権力の眼をくらませたことから、発展の道は確保されていたように思えたが、1939年10月29日に朝鮮文人協会は「朝鮮文人報国会」として改編されるなど、金史良を含む朝鮮人作家らはなしくずし的に「内鮮一体」を唱える統治権力への隷従を迫られた。日本文壇が朝鮮に対する植民地政策に関与するようになる文芸銃後運動も強くなり、金史良の直面していた状況は非常に厳しいものであった。太平洋戦争の開戦の翌日の1941年12月9日朝に鎌倉警察署に検挙され、翌年1月末に釈放されている。従軍作家になり時局に協力する「文章報国」、あるいは執筆そのものの禁止など、釈放の条件については不明であるが、この釈放の時点で思想的、政治的な後退があったことは否めない。釈放のすぐ後の1942年2月、金史良は旅費を調達して帰国した。日本における彼の著作活動は、この1939年秋から1941年秋までの、わずか2年間であった。
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