作家生活とは? わかりやすく解説

作家生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:18 UTC 版)

佐木隆三」の記事における「作家生活」の解説

1950年昭和25年)、母の親戚頼り八幡市(現:北九州市八幡東区)へ移る。1956年昭和31年)、福岡県立八幡中央高校卒業後、八幡製鐵(現:日本製鉄)に就職1960年昭和35年)、八幡製鐵労組労働組合)の活動をはじめ、安保闘争直前から日本共産党入党組合活動活発化させるが、まもなく共産党離れ共産党批判する小説を書く。1961年昭和36年)、『大罷業』を『別冊日曜作家』に発表1964年昭和39年)に、八幡製鐵退職一方で同年後年代表作復讐するは我にあり』のモデルとなった西口彰による連続殺人事件裁判一度だけ傍聴している。以後作家活動専念する同人誌などに小説書き始め、『新日本文学』や『文學界』に発表長崎造船中里喜昭とともに労働者作家として注目を浴びる1967年昭和42年)、東京都中野区東中野移り東京での作家生活を始める。1971年昭和46年)、のちに野坂昭如中上健次らが足しげく通った新宿ゴールデン街文壇バー花の木」の名物ママとなる広田和子離婚沖縄引っ越して2度目の結婚コザ市外人アパート住み沖縄復帰闘争活動家たちとかかわり復帰問題深く関与した11月17日沖縄返還における沖縄返還協定批准阻止闘争による沖縄ゼネストで、作家だからデモ首謀者違いない琉球警察疑われ1972年1月逮捕されるその後12日間、留置所勾留されたが無実判明して釈放された。留置所での様々な犯罪者たちとの出会い転機となって犯罪小説のめり込んでいった。1973年昭和48年)、2年住んだ沖縄離れ千葉県市川市移住1978年昭和53年7月銀座路上交差点赤信号停止しているタクシー乗ろうとしたところ、タクシー乗り場から乗るように言われたことに逆上タクシーボンネット乗り上げて暴れてフロントガラス破壊したため、築地警察署員に逮捕される。この時、佐木仲間5人とともにクラブなど2軒でウイスキーボトルを2本近くあけるなど、かなり酒に酔っていた。1979年昭和54年)、『復讐するは我にあり』が松竹映画化監督今村昌平主演緒形拳)され、同年映画賞独占佐木の名も広く知られることとなったが、映画化に至る経緯では新聞沙汰になるほどのトラブル噴出している。 1985年昭和60年)には、別府3億円保険金殺人事件題材にしたノンフィクション小説一・二死刑、残る疑問別府三億円保険金殺人事件』(徳間書店)を発表その後同事件の被告人当時第一審および控訴審死刑判決を受け上告中)が佐木連載読んで、「無罪放免にしてくれるなら」とさまざまな裁判資料提出拘置所佐木面会した際、被告人冤罪主張するも、「無罪になれば保険金が入るから謝礼する」と発言。ところが佐木は「無罪だとはこれっぽっちも思わなかった」ことから、後年被告人逆恨みの手紙を送っている。その後被告人上告中の1989年平成元年)に死亡し裁判公訴棄却によって終結した。 また1987年昭和62年5月31日には、富山・長野連続女性誘拐殺人事件題材としたノンフィクション小説『男の責任 女高生OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)を発表。この著書は、犯人の女MT1998年死刑確定女性死刑囚)の共犯として起訴され男性1992年無罪確定)の冤罪説に立ち、男性無実訴え目的出版したのである同事件の刑事裁判第一審富山地裁)では、同年論告求刑公判で、殺害実行犯とされたMT死刑を、共謀共同正犯とされた男性無期懲役それぞれ求刑されていたが、翌1988年昭和63年2月9日富山地裁MT単独犯と認定して死刑処した一方男性については「犯行関与していない」として無罪とする判決宣告男性有罪主張した検察官と、自身への死刑不服としたMT控訴し控訴審名古屋高裁金沢支部続いていた1991年平成3年9月5日には、同書加筆削除し出版後の経緯織り込んだ文庫本女高生OL連続誘拐殺人事件』(徳間書店)を出版控訴審終結後1992年平成4年)にはテレビドラマ化され、『実録犯罪史シリーズ』(フジテレビ系列)の「最期ドライブ 富山長野女子高生OL連続誘拐殺人事件」として放送されたが、1994年平成6年9月中旬には犯人MT当時上告中)から名誉毀損として、出版元徳間書店とともに慰謝料500万円求め民事訴訟起こされ2000年平成12年)に被告佐木および徳間書店)側の敗訴確定している。 詳細は「富山・長野連続女性誘拐殺人事件#佐木隆三の著書をめぐる訴訟」を参照

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作家生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/14 23:34 UTC 版)

出口和明」の記事における「作家生活」の解説

大学中退後人類愛新聞記者貸本屋喫茶店飲食店椙山女学園大学名古屋市集団給食実習主任などの職業遍歴1963年昭和38年9月文藝春秋第二回オール讀物推理小説新人賞受賞(このとき西村京太郎一緒に受賞している)。受賞作品は「野上竜」というペンネーム応募した凶徒」で、「すなお教」という架空新興宗教団体内情描いた推理小説審査員松本清張強く推して受賞した。 和明は宗教宗家という出口家の宿命から遠ざかりたいと思い意識的に教団の外を生きた。しかし王仁三郎への敬愛気持ちから、王仁三郎のために何かしたい思い1968年昭和43年)から歴史小説大地の母』の執筆始める。当初大本月刊機関誌『おほもと』に連載同年6月号から)され、後に書籍化された。 当時名古屋住んでいたが、1969年昭和44年3月25日執筆専念するために妻子と共に亀岡移住父母が住む「熊野館」(くまのやかた、王仁三郎晩年生活していた家)の土蔵書斎にして執筆生活を送る。取材調査に、妻・禮子助手として協力した。 『大地の母執筆にあたり大本三代教主出口直日(和明の伯母にあたる)は「いっさい嘘はいけない。事実曲げてはいけない。真実だけを書くのやで。大本みぐるしいところも何も全部さらけ出しなさい。たとえ私のみにくい、汚いところがあっても、それも書かないいけません」と厳しく諭した

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作家生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:07 UTC 版)

レイモンド・チャンドラー」の記事における「作家生活」の解説

大恐慌経済的に苦しかったため、チャンドラー文筆潜在的才能生計立てよう決めE・S・ガードナーペリー・メイスンものからパルプ・マガジン小説書き方独学学んだ1933年ハードボイルド探偵小説揺籃であったアメリカパルプ・マガジンブラック・マスク』に18000語の中篇脅迫者撃たない英語版)』(”Blackmailers Don’t Shoot”)が掲載されデビューする。『脅迫者撃たない』の執筆には5か月費やした1939年発表処女長編大いなる眠り』で初登場したフィリップ・マーロウは、ハードボイルド派の中で最も有名な探偵といえる。『大いなる眠り』の執筆には3か月かけた。 1950年イギリスでの版元ハミッシュ・ハミルトンの手紙で、なぜパルプ・マガジンを読むようになり、さらに書くようになったかを説明している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} パシフィック・コースト自動車行き来していたとき、安くて捨てて惜しくないパルプ・マガジンを読むようになった。女性向け雑誌を読む趣味全くないのでね。(私がそう言ってよければ)それはブラック・マスク誌の黄金時代で、粗野な面もあるものの、その書きっぷりはかなり力強く正直だ気付いた。そして、小説書き方学んで同時に小遣いを稼ぐというのはよい方法かもしれない思いついた。5カ月かけて18,000語の中編書き上げ、それを180ドル売った。それからもかなり不安な時期すごしたが、私は決し振り返らず前進した2作目長編さらば愛しき女よ』(1940) はそれぞれ別の脚本3度映画化された。1944年の『欲望果て英語版)』ではディック・パウエルマーロウ演じたチャンドラー自身脚本依頼されるうになるビリー・ワイルダー共同脚本書いた深夜の告白』(1944) は、ジェームズ・M・ケインの『倍額保険』が原作だった。このフィルム・ノワール古典は、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。 チャンドラー単独書き下ろし脚本としては『青い戦慄』(1946) がある。プロデューサージョン・ハウスマンによればチャンドラー結末部分完成させることができず、酒を飲ませてくれたら完成させる約束しハウスマンがそれに同意したという。この脚本でもアカデミー賞ノミネートされた。 アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951) でも脚本参加している。パトリシア・ハイスミス同名小説原作だが、チャンドラーは「ばかばかしいストーリー」と原作酷評していた。この映画脚色の際にヒッチコック衝突しヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人聞こえるように言っていた。ヒッチコックは鼻をつまみながらチャンドラー草稿脚本撮影所ゴミ箱投げ入れたという。しかし、最終的にチャンドラーの名前が脚本として残っている。 1946年サンディエゴ程近い海岸沿いのカリフォルニア州ラ・ホヤ引越す。妻シシイは慢性気管支炎で体が衰弱しており、チャンドラー家事をする合間執筆していた。『長いお別れ』(1953) を書いた1954年12月12日に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『プレイバック』で復帰する。『プレイバック』はユニバーサル・ピクチャーズのために書いた脚本映画化されず)が元になっている。さらに翌1959年、『プードル・スプリングス物語』の執筆とりかかるも、冒頭第4章まで書いたところで亡くなった同作1989年著名なハードボイルド作家であり、チャンドラーの熱心なファンでもあったロバート・B・パーカー遺族承諾得た上で続き執筆し完成させた。パーカーは他に『大いなる眠り』の続編夢を見るかもしれない Perchance to Dream』(1991年)も書いている。 チャンドラーによるマーロウ主人公とする最後短編1957年ごろの "The Pencil" で、日本語では「マーロウ最後の事件となっている。HBO1983年から1986年にかけて Philip Marlowe, Private Detective というドラマシリーズ放送しており、「マーロウ最後の事件」も1エピソード原作として使われた。

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作家生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 22:29 UTC 版)

金史良」の記事における「作家生活」の解説

芥川賞候補作となった光の中に以降、「土城廊」「箕子林」「天馬」「探し」などを相次いで発表し一年足らずの間に日本における民族主義作家として地歩を固めたプロレタリア文学後退する時勢中にあって、朝鮮文学朝鮮語による表記ある程度統治権力の眼をくらませたことから、発展の道は確保されていたように思えたが、1939年10月29日朝鮮文人協会は「朝鮮文人報国会」として改編されるなど、金史良を含む朝鮮人作家らはなしくずし的に「内鮮一体」を唱える統治権力への隷従迫られた。日本文壇朝鮮対す植民地政策関与するうになる文芸銃後運動強くなり、金史良直面していた状況は非常に厳しいものであった太平洋戦争開戦翌日1941年12月9日朝に鎌倉警察署検挙され翌年1月末に釈放されている。従軍作家になり時局協力する文章報国」、あるいは執筆そのもの禁止など、釈放条件については不明であるが、この釈放時点思想的政治的な後退があったことは否めない釈放のすぐ後の1942年2月金史良旅費調達して帰国した日本における彼の著作活動は、この1939年秋から1941年秋までの、わずか2年であった

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