作家活動へ
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1921年(大正10年)7月から11月まで横須賀海軍砲術学校フランス語講師、10月から1922年(大正11年)6月までフランス『ル・タン』の通信事務員。7月から1923年(大正12年)3月まで海軍軍令部に勤務。東京外国語学校の同窓生を中心として野島辰次、高橋邦太郎らと同人誌『現代文学』創刊に参加し、「鬼火」「ある午後の風景」などの小説の習作を発表。このころの石川淳について小島政二郎は「アナトール・フランスばりの形式美の追求者」と評している。1922年にポール・クローデルの歓迎会や講演会に参加。1923年、アナトール・フランス『赤い百合』の翻訳刊行。1923年9月から1924年(大正13年)3月まで慶應義塾仏語会にて仏語講師。関東大震災で山内義雄の家に避難し、ここで1924年にアンドレ・ジッドの『背徳者』翻訳刊行。 1924年4月、旧制福岡高等学校(新制九州大学教養部の前身)の仏語講師として福岡に赴任。年俸は1600円(2006年の貨幣価値で800万円ほど)であった。福岡市東養巴町に家庭を持つ。教師時代の入学試験で「新聞紙」という作文の答案が、文系の志願者はすべてがジャーナリズムとしての新聞、理系の志願者はすべて用紙としての新聞の紙についてだったとエッセイに発表、作家花田清輝は自分はそのときの受験生だったと書いている。 1925年(大正14年)11月21日、文部省から派遣された法学博士・蜷川新の講演会がきっかけで学生運動が発生、関係していた社会科学研究会は治安維持法違反で解散させられる。石川も左翼学生に加担したとの理由で辞職を勧告され2学期かぎりで休職、1926年(大正15年)3月に正式に依願退職した。東京に戻った後は、放浪生活となり、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜穴』などの翻訳をした他は、約10年間創作活動を休止する。 1933年から評論などの執筆を再開し、1935年(昭和10年)の『佳人』発表から創作も再開。1937年(昭和12年)、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年(昭和13年)の『文学界』1月号に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして1937年12月29日発禁処分を受け、編集責任者河上徹太郎とともに罰金刑に処せられたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鷗外』(1941年12月5日刊)、『文学大概』(1942年8月15日)などの評論や、江戸文学の研究に没頭し、この当時を自ら「江戸へ留学」していたと語っている。1941年(昭和16年)11月、坂口安吾と識る。1945年(昭和20年)5月25日、空爆により被災、千葉県船橋市に転居。厚生省の外郭団体に勤務し同和地区視察のために夏から秋にかけ北陸、近畿、四国を出張旅行、この間に日本の敗戰となった。
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1952年1月、篠田一士、菅野昭正、川村二郎らとともに季刊の同人誌『秩序』(白林社)を創刊。その第1号に短編小説「ゆがんだ太陽」を掲載した。また同誌2号から7号に初の長編小説『エホバの顔を避けて』を連載。4月、杉並区にある高千穂高等学校講師となる。5月、グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を『不良少年』の邦題で翻訳、筑摩書房より刊行。以後英文学の翻訳を行う。 1953年9月、國學院大學の専任講師となる。1954年の春まで、同人誌「現代評論」の同人仲間であった山口瞳が同じ学校の学生として在籍していた。1954年4月、國學院大学助教授に昇進。ここで中野孝次らと知り合う。また、桐朋学園の非常勤講師となる。同年10月、東大英文科の同級生で演劇批評家の根村絢子と結婚。戸籍上は根村姓を継いだ。 1960年10月、『エホバの顔を避けて』を刊行。1961年1月、季刊『聲』第1号(鉢の木会の編集で丸善発行)に小説「うぐいす笛」発表。『東京新聞』1961年2月から1971年3月まで、時評「大波小波」を匿名で掲載。『文藝』1962年3月号から1963年7月号まで、時評「回転木馬」を匿名で掲載。1964年、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』を永川玲二、高松雄一と共訳・刊行(上・下)。1965年3月、國學院大學を退職。東京大学英文科非常勤講師として4月より2年間「ジェイムス・ジョイス」を講義。1965年7月5日付から1967年7月12日付まで毎月2回、『読売新聞』に「貝殻一平」の名前で「大衆文芸時評」を連載。『群像』1965年12月号から1969年1月号まで、時評「侃々諤々」を匿名で掲載。1966年7月、長編小説第2作『笹まくら』を、10月、評論集『梨のつぶて』を刊行(新仮名遣いを使用)。1967年、『笹まくら』で河出文化賞を受賞。『鐘』刊行。1968年3月『年の残り』発表、7月に同作品で第59回芥川賞受賞。
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