交友・対人関係
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自身の舞台の出演者とはその後も仲良くなることが多く。特に日本デビュー当時から出演を重ねている山寺宏一や林原めぐみや上川隆也、諏訪部順一、浪川大輔、沢城みゆき、朴璐美、山路和弘、石井正則、村中俊之、小杉紗代とはプライベートでも仲がよい。 また音楽監督として藤沢朗読劇に参加している吉田良一郎(吉田兄弟)に津軽三味線を師事しており師弟関係にある。
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交友・対人関係
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同業の平松晶子とは親友。日髙のり子を姉的存在として慕っている。愛河里花子・岩田光央夫妻が長野県で行っている田植えには毎年のように手伝いに行くほか、帰省にもしばしば同行するなど家族ぐるみで付き合いが深い。 「頭が上がらない声優仲間」としては、ラジオのトークで天野由梨・佐々木望・川村万梨阿・松井菜桜子・渡辺久美子・岡本麻弥の名前を挙げていた。この内、天野由梨はアーツビジョンの養成所での同期(1期)である。また、自分のペースに巻き込めない声優に草尾毅がいる。『ポケットモンスター』で共演しているコジロウ役の三木眞一郎とは古馴染みである。また元事務所の同僚で、『エヴァンゲリオン』で長年共演し、偶然近い時期に女子を出産することになった三石琴乃とも旧知の間柄である。 檜山修之、森川智之の2人は過去に頻繁に林原のラジオに出演しており、『HS』などのコーナージングルに使用するショートコントで協力している一方、林原は2人が行っているイベント「おまえらのためだろ!」に1999年に行われた第10弾から現在まで毎回声のみの演出協力をしている。 同業以外では小説家の池上永一などと交流があるほか、お笑いタレントの藤井隆とはラジオ番組で競演して以来の関係で恩人として慕われている。また、加藤夏希・栗山千明・紺野あさ美(元テレビ東京アナウンサー)・声優の能登有沙・中西優香(SKE48)などの歌手やモデル、畑健二郎などの漫画家が林原のファンであることを度々公言している。
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交友・対人関係
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馬琴は江戸後期の化政文化を大きく担い、同時代の出版文化をめぐる人々とも様々な関係を持った。馬琴の戯作者に対する見方は、天保4年(1833年)から天保5年(1834年)にかけて執筆された戯作者の評伝『近世物之本江戸作者部類』などに記されている。『南総里見八犬伝』完結時のあとがきとして記された「回外剰筆」(天保12年(1841年)執筆)には、交友を持った人物の思い出などが語られている。 生没年はグレゴリオ暦で示した。 山東京伝(1761年 - 1816年) 「生涯」節にも既述の通り、馬琴が著作家の道を歩むにあたって京伝は大きな影響を与えた人物であり、またのちに作家として大成した馬琴と作品を競う関係となった。 山東京山(1769年 - 1858年) 京伝の弟であるが、馬琴との関係は険悪であった。馬琴は、京山が京伝死後に寡婦の百合を狂死に追いやり、家業の薬屋を乗っ取ったと見て非常に嫌悪している。京伝とその妻百合の死後の文政2年(1819年)、馬琴は京伝の評伝として『伊波伝毛乃記(いわでもの記)』を著しているが、この書の眼目は京山への非難にあると考えられる。一方の京山も、1830年に鈴木牧之に送った『鳴蛙秘抄』などで、馬琴が京伝から多大な恩を受けながら葬式にも来ない(馬琴側は出席したとしている)などとして「忘恩の徒」と非難している。 式亭三馬(1776年 - 1822年) 『浮世風呂』(1809年)が一世を風靡した滑稽本作者であるが、目指す文芸の方向性の違いもあり、馬琴と三馬は険悪な関係にあった。『近世物之本江戸作者部類』で馬琴は「(三馬は)馬琴を憎むこと讐敵のごとしと聞こえたり」と述べている。馬琴には三馬の読本『阿古義物語』(1810年)を酷評した批評文「駢鞭」(「駢」は原文では「馬」を三つ並べた異体字であり、三馬を鞭打つという含意が明らかである)が残っている(『曲亭遺稿』所収)。『近世物之本江戸作者部類』では、「純粋の戯作者」「才子」(才に頼み古典教養がないという批判も含まれる)としつつ、馬琴の書からの剽窃があることを断じるなど、三馬に辛辣な批判を加えている。 葛飾北斎(1760年 - 1849年) 馬琴作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師。二人はかなり親しく、文化3年(1806年)の春から夏にかけての3,4ヶ月にかけて、北斎は馬琴宅に居候していたようだ。文化年間の末から両者の合作は無くなったため、二人は絶交したという説もある。しかし、絶交説の初出はどれも明治時代の資料であり、同時代の資料には殆ど見られない。コンビ解消の理由は、北斎の名声が上がり挿絵以外の仕事が忙しくなったためとも、二人の原稿料が上がってコストが増えたのを版元が敬遠したためとも推測される。 江戸時代の小説の挿絵は、作者が画稿(下絵)を描いて画工が完成させるもので、特に馬琴の画工への注文はこだわりが多く、厳しいものであった。北斎は凝り性で自信が強く覇気にも富んでいたため、挿絵についても馬琴の指示に従わず、自分の絵にして描いたため、しばしば衝突した。馬琴の手紙によると、北斎は画中の人物の位置をよく入れ替えるので、下図に右に置きたい人物をわざと左に描いておくと、北斎は必ず右に持ってきてくれると述べている。ただし、馬琴の書簡には北斎を賞賛する記述が散見され、その画力は後々も認めていたようだ。 只野真葛(1763年 - 1825年) 仙台在住。工藤平助の娘。この交流は、文政2年(1819年)に真葛が自著『独考』の添削と出版を馬琴に依頼したことではじまり、政治や経済・儒教に関し文通が行われた。真葛の儒教批判は馬琴の受け入れるところとはならなかった。しかし、出版のための校閲を促された馬琴が真葛に対して絶交を通知、批判書『独考論』を送り、交流は1年余りで終わった。 『南総里見八犬伝』の「回外剰筆」(1842年)によれば、馬琴のもとには自筆小説の批評を請うたり、入門を求める女性も多くあったらしい(ただし、馬琴は「婦女子なれば答ざりき」という)。しかしその中で特に真葛の名とその学問・人柄が挙げられており、議論の書を交わした思い出が語られている。 蒲生君平(1768年 - 1813年) 馬琴と交友を結んでいた。君平死後、馬琴は君平の伝記として随筆「蒲の花かつみ」を著し、随筆集『兎園小説』に収めた。『南総里見八犬伝』「回外剰筆」には、八犬伝を見果てずに去った往年の知音の一人として、蒲生秀実(君平)の名が挙げられている(ただし『八犬伝』の刊行開始は君平の死の翌年、1814年である)。『八犬伝』から尊王思想を読み解く小池藤五郎は、犬村大角のモデルは君平ではないかとしている。 鈴木牧之(1770年 - 1842年) 越後国小千谷の商人。のちに『北越雪譜』として結実する、地元についての随筆集の出版を目指して、江戸の出版界と関わりを持った。寛政10年(1798年)、牧之は山東京伝を頼って出版を試みたが版元が見つからず、計画は沙汰やみになった。牧之が次に頼ったのが馬琴であるが、この時馬琴は京伝との関係悪化を懸念し出版には至らなかった(出版については京伝も馬琴も乗り気であった)。京伝死後の文化13年(1813年)、牧之は再び馬琴とともに出版をめざした。馬琴はこの時期『南総里見八犬伝』を手掛けており、作中でも越後小千谷を登場させ、牧之から提供された資料を出所を記しつつ活用している。しかし馬琴が自作にかかりきりとなって『北越雪譜』出版作業は進まず、牧之は京伝の弟である京山と接近した。馬琴は態度を硬化させて牧之に原稿を返却せず、牧之は再度原稿を執筆する羽目になった。結局『北越雪譜』は天保8年(1837年)、京山の協力によって出版に至った。 渡辺崋山(1793年 - 1841年) 三河国田原藩家老。馬琴の子である宗伯(興継。画家としての号は琴嶺)は幼少時に金子金陵に入門して画を学んでいたが、文化6年(1809年)に崋山が金陵に入門、宗伯の弟弟子となった(ただし崋山が宗伯より年上である)のが、崋山と滝沢家とのかかわりの始まりである。馬琴と崋山は歳の差がありながらも友人として親しく交わり、互いに書籍を貸借する仲であった。馬琴の『玄同放言』には宗伯とともに崋山が挿絵を描いている。宗伯が天保6年(1835年)に没すると、崋山はその死に顔をデッサンしたが、骨格をとらえようと遺体に手を触れた崋山を馬琴は「剛毅」と評している。天保10年(1839年)に発生した蛮社の獄において崋山が罪に問われ、椿椿山ら友人たちが助命嘆願に奔走した際に馬琴は同調せず、この冷淡さはしばしば批判されている。崋山の蔵書に自分が貸した本があることを心配するなど保身的な姿勢も確かであるが、馬琴なりの政治観のあらわれ(定められた法に背いたことや、陪臣の職分を越えて国事に奔走したことを非としたようである)もあるととられる。崋山自刃後は、遺された家族の冷遇に「痛むべし」と同情を寄せている。 木村黙老(1774年 - 1857年) 讃岐国高松藩家老。諱は亘・通明。松平頼恕に仕え藩財政再建に功績を挙げた政治家であるとともに、和漢の学問に通じて多数の著作を残し、また「俗な文学」である歌舞伎や戯作の愛好者でもあった。馬琴との間では、小説作法などについての応答を交わし、書籍を貸しあう仲であった。馬琴の『近世物之本江戸作者部類』の執筆(1833年 - 1834年)は黙老からの依頼がきっかけで、『作者部類』に記載された「風来山人」こと平賀源内(1728年 - 1780年。高松藩出身)についての情報の一部は、黙老の随筆集『聞まゝの記』から移されたものである。 「八犬伝第九輯下套下引」(天保10年/1839年)などで、馬琴が遠方に住まう数少ない友人として挙げる木村黙老・殿村篠斎・小津桂窓は、「三友」と呼ばれる:26。さらに石川畳翠を加えて「四友」という。 殿村篠斎(1779年 - 1847年) 伊勢国松坂在住の木綿問屋の主人で、本居宣長門下の国学者。号は三枝園主人。馬琴とは長く文通を続けた。馬琴は「吾が知音の友」と記している。『犬夷評判記』(文政元年/1818年)は南総里見八犬伝と『朝夷巡島記』の批評で、弟の櫟亭琴魚と著し、馬琴が回答を寄せるという形で刊行した。 櫟亭琴魚(1788年 - 1831年) 殿村篠斎の弟。戯号の「琴」は馬琴にあやかったものである(馬琴自身には門人を取る考えはなかった)。『窓蛍余談』『青砥石文』などの著作がある。交友関係の長く続いた人物であるが、40歳あまりで死去した。 小津桂窓(1804年 - 1858年) 伊勢国松阪の豪商。名は久足。本居春庭に師事して国学・和歌を学び、「西荘文庫」を擁した書籍収集家として知られるとともに:17、多くの紀行文を著した紀行家でもある:17。文政11年(1828年)12月に桂窓が馬琴を訪問したのが初対面であるが、当初の交流は仲介に立った篠斎の体面を潰さない程度の形式的なものであったようである:18。天保3年(1832年)、商用で江戸に出た桂窓は馬琴を5度訪問し、長時間ひざを突き合わせた。また蔵書の貸与を行って馬琴の誤謬に気付かせるなどしたことから認識が改まり、同年11月の篠斎宛の手紙で馬琴は桂窓の才能と見識を高く評価した:18。天保4年(1833年)、桂窓が紀行文「梅桜日記」を馬琴に送ると、容易に他人を褒めることがない馬琴が最大級の評価を与え、文筆家としての才能も認めた:23。馬琴と桂窓は以後終生の知友となった。天保7年(1836年)に馬琴が経済的に窮した際には、蔵書を買い取るなどパトロン的な役割も果たした:17。 石川畳翠(1807年 - 1841年) 三千石取りの旗本で、通称は左金吾。馬琴の愛読者で、篠斎・桂窓・黙老とともに馬琴に「四友」と呼ばれた。これら「四友」たちは馬琴の著書に対する批評と、それに対する馬琴の答評を合わせた書籍を出しており、石川畳翠も『八犬伝畳翠君評』などを手掛けている。『八犬伝』完結を前に死去し、馬琴は「広き大江戸に、知音の友は地を払て、今は一人もあらずなりぬ」(友は篠斎・桂窓・黙老といった遠方の人ばかりになった)と嘆いている。
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