安重根
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評価
安重根への評価は下記のように様々で、時代によって変遷し国や人によって大きく異なる[58][59][60]。特に日韓の安の評価の違いは日韓両国の永続的な確執の象徴になった[61]。
朝鮮
大韓帝国
- 兇徒(皇帝、太皇帝、政府要人など)
- 大韓帝国の皇室は日本への配慮を重視し、太皇帝高宗は亡くなった伊藤博文を「韓国の慈父」と評して哀悼の意を示した。当初は犯人は外国人であろうとしたが、日本にいた王世子が報道で知って兄の皇帝純宗に「伊藤氏が我が国の人間の『凶手』にかかった」と電報を発してきたことから、純宗は急ぎ天皇に宛てて電報を送り「本日伊藤公哈爾賓に在りて兇徒の為に難に逢うの報に接し驚愕痛恨に堪えず」[62] と打電。高宗も「恥ずかしさの極限」であるとして陳謝した[63]。
- 事件翌日、すぐに内閣総理大臣李完用が皇帝勅使として、承寧府総管趙民熈が太皇帝勅使として、総監府の人間と共に計20名余の使節団が大連に派遣され、伊藤の亡骸を出迎えにいった[62]。さらに首都では、歌舞音曲が禁止されるなど、徹底した自粛が行われた[64]。
- 1910年1月7日、韓国十三道民衆代表の謝罪使として鄭寅昌と宋鶴昇が来日して、大井村谷垂墓地を参詣し、朝鮮の礼儀で哀悼を示して、伊藤の墓の前で弔文を読み哭礼の儀を行った[65]。「謝罪団」も参照
- 英雄(朝鮮の人々)
- 『「伊藤倒れる」の報に朝鮮の人々は快哉を叫び、安重根を英雄として称えた』[66]。
大韓民国
- 義士
- 韓国では、安重根は抗日闘争の英雄と評価される。大韓義軍参謀中将[67]であったとか、特派独立軍司令官[68]、将軍とも称される[67]が、安本人が裁判で自分の地位を陳述した以外では、これらの肩書きに根拠はない。ソウル特別市には安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている[69]。
- 韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に彼の功績を称えて「安重根」と命名した[70]。同様の理由でテコンドー界でも、型の名前に彼の名が用いられている(国際テコンドー連盟4級で習得する安重)。
- 伊藤博文暗殺から100年に当たる2009年10月26日には、ハルビンで記念式典が開催された[71]。2013年、韓国大統領の朴槿恵は6月の訪中で、中華人民共和国主席・習近平に対して、殺害現場であるハルピン駅に安重根の石碑建立を提案して実現にむけて協力を要請した[72]。後述するがこれは実現した。また同館には着ぐるみの安重根があり、これが日本ではテロリストをゆるキャラ化する非常識と報道された[73]。
- 在日本大韓民国民団は、2014年3月26日に東京で開催された安重根の追悼式で「安重根義士がテロリストではなく、東洋の平和を切に願った義人だという事実を、日本国政府も知るべきだ。今後、安義士の思想が東洋平和の礎となるよう努力していく」と表明した[74]。
- 一方で、近年韓国では漢字教育が行なわれていないこともあり、ある中学校では、安重根に対する敬称である「義士」を、病気を治す「医師」(韓国語ではどちらも「ウィサ」で同音)と勘違いして、「医師がなぜ人を殺すのですか」と質問する学生がいるという[75]。
反日のシンボルとしての安重根
- 韓国では安重根はしばしば反日のシンボルとされ、国際的なスポーツ大会(特にサッカー)でも彼の肖像画の横断幕が使われる事があり、2013年7月28日に行われた東アジアカップ・日本対韓国戦でも、『歴史を忘れた民族に未来はない』という横断幕[注釈 28] と共に、安重根と李舜臣の肖像が掲げられた[76]。これは2014年9月28日のアジア大会のサッカー男子準々決勝の日韓戦でも繰り返されたが、EAFFと違ってFIFA公認大会のため、禁止されている応援時の政治的な活動にあたるとして批判を受けた[77]。
- 韓国でも伊藤の暗殺だけでなく、彼の唱えた「東洋平和論」やその思想を証明する教育啓蒙活動は活発であるが、非常に一面的である。裁判での陳述や東洋平和論を読む限り、安自身は反日を主張しておらず、(白人支配への)日朝中の共闘を呼びかけているに過ぎない。これは看守など獄中での日本人との親しい交流でも明かで、安重根の日本観[78] は、不幸な形で誤解されている。君主主義者である安は、日韓の皇室に敬意を払い、政道を正すために奸臣を取り除こうとしたのであり、自らを忠義の臣であるとした。「王や皇帝に誤りはなく、悪い臣下がいるから政道を誤るという」[78] 考え方は日本の右翼人士と共通する志向であったので、彼らの共感を得たのである。
- 2014年8月には、小説家である金正賢[注釈 29] が、安重根が現在にタイムスリップしてスナイパーとなり、日本の現職首相である安倍晋三を狙撃するという『安重根、安倍を撃つ』なる小説を発表し、韓国でベストセラーとなった[79]。
- 2016年5月3日、AOAが、ケーブルテレビOnStyle(en:OnStyle)の番組『チャンネルAOA』で、人物の写真を見て名前を当てるクイズで、安重根の写真を見て豊臣秀吉[80] や伊藤博文[81] と答えた。これに対して非難が殺到したため、13日にソーシャル・ネットワーキング・サービスで「大韓民国国民としての歴史について慎重な姿勢をお見せできず反省しています」(ソリョン)、「無知こそ最大の間違いであることを学びました」(ジミン)と謝罪した[80]。5月16日に行われたライブ公演でも涙を流しながら謝罪した[82]。
義兵闘争と国際法との関係
- 韓国の義務教育期間である中学校の歴史教科書によると「義兵将として国内外で抗日戦を展開していた安重根は、初代統監としてわが国侵略の先頭に立っていた伊籐博文がロシアの代表と会談するためにハルビンに到着したとき、彼を射殺して民族の独立の意志を明らかに示した。」[83] とあり、韓国では義兵が自らを国際法上の交戦団体として承認するように各国大使館に要求していたことから、これが独立のための軍隊であったと主張され、安重根はその軍(つまり大韓義軍)の軍人であったとされている。確かに、安本人も裁判で自分は「戦争に敗北した捕虜」であり、日本の国内法で裁かれることに不満を述べ、「万国公法(国際法)によって処理される」ことを希望したが、この主張にはいくつか重大な問題があった。
- まず、当時、義兵を交戦団体に認定した外国政府はなかった。多くても30名程度の名前しか見つけられない大韓義軍が、武装勢力だったとしても、国境の外に多数に存在した独立軍の一つに過ぎず、(事件を起こすまで)特に目立つ存在ではなかったことは明らかである。そして仮に交戦団体であったと仮定するにしても、そこで生じるのは戦時国際法を守る義務である。銃弾を受けた伊藤博文と随行員のすべてが文民であり[注釈 30]、現場となったハルビン駅も該当紛争の中立国清国内のロシア管理区域で、交戦地域ではなく、さらに安は平服で軍籍を示すような徽章の類を示していなかった。1909年当時、すでに日韓はハーグ陸戦条約に加盟しており、自らが軍隊であると主張するのであれば戦時国際法を遵守すべきであるが、複数の点[注釈 31] で明らかに違反するか、少なくとも捕虜の待遇を求めるには不十分であった。また大韓義軍関係者は上海やウラジオストクなどで活動しており、仮にロシアや清国が交戦団体であったと見なせば、彼らの活動を許したロシアや清国には中立国義務違反が生じる恐れがあった。安の希望した国際法を適用すると、これらの周辺国との問題に発展した。ロシアが速やかに安の身柄を日本側に引き渡したのはこのためで、日本もあくまでも刑法犯として裁いた。
- 韓国においても「安義士が正式に軍隊に属したこともないので将軍と呼ぶのはふさわしくない」という意見もあり、李明博政権時代の大韓民国国家報勲処は義士であって将軍ではないという立場であった[67]。
朝鮮民主主義人民共和国
- 反面教師(金日成政権)
- 北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成の抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班という出身に矛盾があり愛国的ではあったものの解決策を持たず手段も目標も誤った人物と捉え、安重根の救国の意志は認めるものの、その手段としての「暗殺」は評価しない。「北朝鮮では彼を愛国者と評価しつつも金日成氏のような偉大な指導者に出会えず志を遂げられなかった人物として、それほど評価は高くない」[84]。
- かつて北朝鮮の教科書では金日成の反面教師のように扱われたが、これは安重根が黄海道海州の両班(ヤンバン 李氏朝鮮国の官僚になる特権を持つ貴族)、すなわち社会主義国家の建設のためにおこなう階級闘争によって淘汰さるべき支配階級であったためとされる[85][86]。
- 個人テロ(金正日政権)
- 2009年10月24日付けの週刊誌『統一新報』では「歳月が流れても祖国と民族のために捧げた愛国者の人生は、民族の記憶の中に永遠に残ることになる」としながら「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」であるとした[87]。
- 烈士, 安重根=金基宗(金正恩政権)
- 2013年から2014年における日韓の安重根論争に際して、金正恩政権の北朝鮮も、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が1月26日付の記事で見解を発表した。日本政府が安を「テロリスト」と呼んだことについて、「反日愛国の烈士をむやみに冒涜すべきでない」と批判。同日、北朝鮮のメディアとしては初めて、朝鮮中央放送と平壌放送が、記念館の設置についても触れた[88]。
- 2015年3月5日にマーク・リッパート駐韓米国大使が襲撃事件に遭うと、北朝鮮の祖国平和統一委員会は、襲撃犯である金基宗(キム・ギジョン)容疑者を、伊藤博文を暗殺した安重根に例えて賞賛した。これに韓国では光復会などが反撥したが、朝鮮中央通信は「米帝の戦争策動に反対する義を重んじた行動がテロならば、日帝の朝鮮侵略に反対して伊藤博文を処刑した安重根など反日愛国志士たちの義挙も日本反動どもが冒涜しているようにテロだと呼ばねばならないのか」と主張した[89]。(関連話)
日本
- 日本政府の見解
- 平成二十六年(2014年)の第186回国会の「中国黒竜江省に安重根記念館が建設されたことに関する質問」に対する答弁書で「安重根は、内閣総理大臣や韓国統監を務めた伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物であると承知している。」と定義された[90]。
- 兇漢(明治政府の見解)
- 明治42年(1909年)11月7日に朝鮮統監曾禰荒助が総理大臣桂太郎に提出した調査報告書では端的に「兇漢安重根」とされ、平壌で曹成煥[注釈 32] に排日教育の指導を受けて、間島で李相卨[注釈 33] の門下生となった人物で、同氏がハーグに旅立ったために、ロシア領で活動中の崔才亨[注釈 27] と合流したとされている。同報告書は、安を「無頼の徒」にして「粗暴」と簡単に評価する一方で、関係人物を網羅的に調べ、大東共報が在米韓国人からの運動支援の窓口とされていることに着目して、期せずして最大の支援国となっていたアメリカ(本土およびハワイ)からの資金の流れに強い関心を持っていた[18]。
- 志士(汎アジア主義的立場)
- 事件当時に限れば明治日本の人々[注釈 34] の中には、安重根は単身で要人暗殺テロを完遂した汎アジア主義者の志士であるとして共感する者もおり、看守には助命嘆願をした者もいたほどだった。現在でも、刑務所の職員が求めた揮毫が何点か現存している。[要出典]
- 初期の汎アジア主義者は、アジアの諸民族は団結して(白人の)植民地や半植民地的な状態から脱すべし、という立場であったので、民族主義者の独立運動を是認する傾向にあったからで、安の書いた「東洋平和論」はこの汎アジア主義に極めて近い思想であり、日本の右翼にも共感できる部分が少なからずあった。[要出典]
- 安は韓国皇室と同様に日本皇室にも敬意を払った君主主義者であり、韓国支配の象徴的存在の外臣・伊藤の暗殺は、自民族の独立を願う志士の純粋な行動としては、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事が「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声をあげたほどだった。これは立場が違っても、相手を忠義の志士と見れば、一定の敬意を払う武士道的倫理観によるものである。「一人殺せば十人の義兵」[注釈 35] と言った安重根の思想は、戦前右翼の一人一殺の思想[注釈 36] に似た点があり、戦後新右翼の代表的な論客であった野村秋介も、安を「尊敬する歴史上の人物」に挙げていた[要出典]。
- ただし、刺客をもって志士と呼び、外国の人士をもって日本の武士道で礼賛することに批判がなかったわけではない。右翼活動家志賀直方の禅の師匠である三浦了覚は、安重根や李在明[注釈 37] をもって志士仁人と見なすのは容易ならざる誤謬であると言い、彼らのような「道理の是非を誤認し天下の大勢に通ぜず偏頗なる識見を盲信して其の相手の敵を狙撃するもの」は「是れ正義人道の上より論断せば悪しむべき危険物にして少しも同情を与えるべき余地を発見せず」と書き、キリスト教徒の信者である安重根・李在明が天国を信じて「正義人道を根本より破壊したる凶悪を逞したる」だけであって、これを日本の武士道や志士のように見なすことはできないと批判した[91]。
- これらは一例ではあるが、評価は右翼においても毀誉褒貶分かれており、その後、テロに奔った朝鮮独立運動が日本国内での評判を悪くし、汎アジア主義が日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序を目指す立場に変質すると、志士との肯定的な評価は難しくなった。[要出典]
- 政治犯
- 1984年、社会党の新村勝雄衆院議員は、安を含む韓国統治時代の「政治犯」の名誉回復を提起したが、当時の外相だった安倍晋太郎は、明確な答弁を避けた[64]。安重根を政治犯とする主張は、左派にしばしば見られたが、行為そのものは犯罪であり、肯定するものではないが、その行動の政治的理由を勘案して一定の赦免は与えられるべきという立場であった。
- 韓国の愛国者[92]/ 義兵運動・独立運動家
- 朝鮮日報は2013年11月21日の社説で『1982年に日本の歴史教科書は安義士を「壮士」と表現した。日本語の「壮士」にはヤクザやチンピラという意味合いがある。日本の極右勢力の主張が今や日本政府の公式見解になってしまったのだ。』[93] と書いたが、実際には「壮士」と記述したのは扶桑社/自由社のものだけで、1982年でもなかった。山川出版社の世界史用語集によると、安重根は「韓国の愛国者で、伊藤博文を朝鮮亡国の元凶とし1909年ハルビンで暗殺。刑死した。」[92] とあり、そもそもほとんどの教科書に登場しない語句である。伊藤の暗殺に関連して名前が出てくる程度であり、独立運動家や民族主義者など簡単に表現されることがほとんどで、テロ行為そのものの評価にまで踏み込んでいる日本の教科書は存在しない。[要出典]
- 暗殺が韓国併合を促進
- 併合反対派で韓国の近代化に尽力した伊藤博文の暗殺が韓国併合を早めたとか[94]、併合の切っ掛けとなった[95] という言説がしばしば語られる。ドナルド・キーンは暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたと評する[29]。近代史における研究では、伊藤博文研究者の伊藤之雄京都大学教授が近年発見された伊藤のメモに「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があったことから「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的だった事を裏付けるもの」[96] とするように、確かに伊藤は韓国を日本の被保護国に留めることを志向して併合に慎重な立場であったが、彼は韓国統監時代には韓国の国権接収などに関与し、最後には併合を決める閣議決定も了承していた[97]。よって併合はすでに既定路線で、暗殺が切っ掛けとなって併合が持ち上がったわけではないが、事件後、これとは別に一進会による日韓合邦運動などあって結果的にはやはり加速され、曾禰統監のもとで着実に進められることになった[注釈 38]。渡部昇一は「伊藤博文が韓国人の安重根によってハルピンで暗殺されたが、これによって韓国併合が急速に進んだ」[99] と言う。「一進会」および「韓日合邦を要求する声明書」も参照
- 犯罪者、テロリスト、死刑判決を受けた人物
- 日本では前述の2013年7月28日のサッカー日韓戦の際にも、政治色の排除が求められるスポーツイベントで、「テロリストの似顔を描いた大垂れ幕をサポーター席に掲げた」という批判[100] があったが、同じ頃、長く不具合が指摘されていた潜水艦安重根が公開されたこともあって、艦名がテロリストの名前ではないかとする日本との認識の違いが話題になっていた[101]。
- そういった中で同年11月、韓国の朴槿恵が6月に中国に依頼して建立を目指していた安重根の石碑が実現しそうであるということになって、安倍内閣の官房長官菅義偉は2013年11月19日の記者会見で、「わが国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた」[102][103] と述べ、日韓関係のためにはならないと不快感を示した[104]。官房長官の発言に韓国メディアはこぞって猛反発し、20日、韓国の尹炳世外相も国会答弁で「容認できない」と抗議したが、官房副長官の世耕弘成は「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物だ。それに尽きる」と述べて反論した[105]。
- 2014年1月20日、抗議を無視してハルビン駅に安重根記念館がオープンされると、菅官房長官は再び発言し、平和に資するものではないと「極めて残念で遺憾だ」と述べ[106]、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」[107] との政府見解を一旦明らかにした上で、中韓に外交ルートで抗議するとした[106][108][109]。韓国メディアはこれにも猛反発[110] し、韓国外交部も「歴史の良心に目を閉ざす菅官房長官を糾弾する」と報道官名義の論評を出し、韓国与党セヌリ党の洪文鐘事務総長は21日に安義士がテロリストなら日本はテロ国家だとの異例の発言をした[111]。翌2月に国会で新党大地の鈴木貴子衆院議員からの質問主意書に対し、安重根は「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物」であると政府答弁書に記することを閣議決定した[112]。これが現在の政府見解となっている。
日韓諸氏の追悼会にて
- 義士
- 2018年9月10日、東京銀座に安重根を義士とたたえる人々が韓日両国から集まった追悼会にて、朝日新聞元ソウル支局長小田川興は安は「100年前に国連の思想を提示」したと述べ、法政大学の牧野英二教授は、安の記した『東洋平和論』をドイツの哲学者カントの『永久平和論』と関連づけて解釈している人物だが、「哲学者の立場から安重根義士の平和思想を研究し、韓日関係をより近くするのが目標だ」と述べた[113]。
中国
清王朝
- 亡くなった伊藤博文を哀悼
- 伊藤博文暗殺の現場となったハルビン市は当時は清王朝の領土であったが、駅はロシア権益に属した[注釈 39]ため、清朝の権限は及ばなかった。それで直接責任を持つ立場になかったが、前述したように、東三省総督・錫良が清朝を代表して伊藤の亡骸を見送って哀悼した。
中華人民共和国
- 無評価
- 安重根が「日本の首相経験者を暗殺した人物」として高い知名度を持っている[114] が、中国政府は、安重根の評価は民族主義的独立運動を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていなかった[114]。
- 1980年から1990年代末にかけ中国で学んだ人物によると、中国の教科書には『安重根が伊藤博文を暗殺したことが火種となり、日本は韓国を併合し、中国侵略への準備を加速させていった』との記述があったと記憶しているとのことで、安重根についての説明はなかったという[95]。またこれは暗殺事件が併合のきっかけになったという説に沿った見解であった。
- 2006年には、韓国人によってハルビン市に4.5mの安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として当局により撤去された[115]。伊藤暗殺から100年にあたる2009年10月26日には同市で記念式典が開かれることになったが、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催は許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。また旅順市の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、「国際抗日烈士展示館」と安重根の名前は出さない曖昧なものにさせ、慰霊や記念式典は認めなかった[114]。
- 義士/抗日戦士
- 従来、朝鮮族の民族主義が、中国共産党が掲げる中華民族の主張に矛盾するため、その分離主義の主張を嫌って中国は積極的に評価しないのではないかと言われていたが、2013年11月20日、中華人民共和国外交部報道局の洪磊副報道局長は「安重根は歴史的に知られた抗日の義士で、中国でも尊重されている」と会見で初めて韓国寄りの発言をした[116]。
- 2014年1月20日、同じく洪報道官は「安重根は著名な抗日戦士で、中国人民は尊敬している。中国は、国内の関連規定により記念施設を設立していて、理にかなっている」として記念館のオープンを説明し、日本の抗議を受け入れない旨を表明した[117]。また9月24日、ハーグで中韓首脳が会談した際、習近平主席は記念館の「建設は私が直接指示を下した」と述べ、さらに光復軍に関する記念館建設についても言及した[118][119]。
- この中国の方針の変化は、単に日中関係の悪化によるものではないという分析もある。中国はアジアにおけるアメリカ合衆国の同盟構造を脆弱化させることを狙っており、記念館建設によって韓国人の中国人に対する好感度を上げることで、アメリカの安全保障上の土台である日韓の関係の溝を一段と広げようという政策であったというのである[61]。
- その他
- 2020年10月、アメリカの大学に進学する全世界の学生が使用するSATとAPの教科書が、歴史上ほとんどの期間、朝鮮は中国の植民地だったと記述していることがJTBCニュースルームの取材で明らかになったが[120]、JTBCニュースルームによると、百度が運営する百度百科でも、安重根や尹東柱や尹奉吉や金九が朝鮮族と表記されており、尹東柱は国籍も中国になっている[120]。朝鮮族が中国籍を取得したのが1954年であることを勘案すれば、事実関係が間違っており、これらの独立活動家が満洲、上海、吉林省に居住して独立活動を行っていたためとみられるが、この場合、朝鮮の抗日運動が中国の抗日運動の歴史に編入されることになる[120]。
注釈
- ^ 死刑執行命令記録原本では年齢は33歳となっている。
- ^ 字は芬道(ブンド)。
- ^ a b 当時の朝鮮では女子名を記録する習慣がなかったので、一般には姓のみを記した。
- ^ マリアは洗礼名と思われる。
- ^ 旧暦では1879年7月16日。
- ^ 伊藤博文は、明治維新の元勲の1人で、日本の初代内閣総理大臣、同じく初代の枢密院議長、初代の韓国統監であるが、韓国統監はすでに退任しており、当時の地位は元老および3代目(2回目)の枢密院議長で、ロシア外相との外務折衝に向かった先で暗殺された[2]。
- ^ 上から重根・定根・恭根。女子名は不詳。
- ^ 兄弟は六男三女。上から泰鎮・泰鉉・泰勲・泰健・泰敏・泰純。三人の姉妹は女子名は不詳。
- ^ 朝鮮を清国の属国から脱しさせて、日本の力で近代化しようとした派閥。現在の韓国では親日派と見なされているが、安泰勲もこれに属していた。
- ^ 民包軍は守城軍とも言うが、朝鮮の官側に立った富裕層が主導とする民間の部隊で、乱の鎮圧にあたった官兵や日本兵を助けて、主に農民からなる民族主義的な東学軍の勢力を孤立させた。
- ^ 李氏朝鮮末期の政治家。当時は度支部大臣だった。
- ^ Nicolas Joseph Marie Wilhelm。
- ^ 自伝には具体的には書かれていないが“日本人の妨害”により失敗したとされ、日本政府の調査によれば、安秉雲と仲たがいしてこれ以上の出資を拒まれたため、安は秉雲を殴打し、さらに抜刀して脅迫で損害金を奪ったとされている。(伊藤公遭難事件調査報告書)
- ^ 自伝には、少なくともこの頃に国内で義兵闘争に加わっていたとは一言も書かれてない。
- ^ 崔才亨の女婿という。
- ^ 自伝では金起龍。日本政府の調査書によると字は燦淵。同調査および安の供述によると泰勳とも称したとされる。元は平壤警察総巡 (警部) から平安北道警務官 (警視)となった人物。
- ^ 本多熊太郎のいう金某と同一人物らしい。自伝では「金斗星」の漢字で書かれている。
- ^ 自伝にははっきりとは書いてないが、これが後に安が主張する「大韓義軍」である。自伝を読む限りにおいても、咸鏡北道からの退却ですでに解散状態であり、事件時にはすでに軍隊どころか武装勢力としての体裁もなしていない。
- ^ 日本の新聞では14名。
- ^ 安應七、金基龍、姜起順、鄭元柱、朴鳳錫、柳致弘、曹順応、黄吉秉、白南奎、金伯春、金天化、姜計讚。
- ^ 李珍玉とハン・ソンキン(漢字不明)という人物と言う。ただし安は後述の尋問において、李珍玉は日本語通訳だが無関係で、ハン・ソンキンなる人物は名前も聞いたことがないと答えている。
- ^ 崔鳳俊が創刊した新聞。明治40年に創刊したが直後に廃刊となったために、義兄弟の崔才亨が大東共報と名前を変えて創刊した。
- ^ 参考文献に記した自伝と同じもの。日本では「獄中記」、韓国では「安応七歴史」と呼ばれている。
- ^ 処刑日前の2、3日は何も書かなかったと伝えられる。
- ^ 父と面識がなかった俊生ではなく、長男の芬道のことで、彼は数年後に12歳でロシアで没している。
- ^ 山本権兵衛が反対したという時期や経緯は詳しく書かれていない。
- ^ a b 義兵運動(当時の日本政府の表現では排日運動)の代表的な活動家で、最年長であったためにロシア当局が在留韓国人の総取締とし、排日思想を論調とする大東共報の創刊者だったことから、日本政府は運動の指導者と見なしていたが、実態は李東輝が指導者と言い、その片腕だった。シベリア出兵をしていた日本軍が、1920年4月4日にウラジオストクの新韓村を襲撃した際、ニコリスクで多数の同志らと共に射殺された。(四月惨変)
- ^ 独立運動家申采浩の言葉と信じられてきたが誤りである。チャーチルやジョージ・サンタヤーナ、ムハンマド・フサイン・ハイカルなど諸説ある。
- ^ 『父のいた日々』などの著作がある。
- ^ ハーグ条約では単に非戦闘員だが、後のジュネーヴ条約にはさらに厳しい規定と禁止事項がある。
- ^ 安が拳銃を隠し持って群衆にまぎれて接近したのならそれも違反で、戦闘員と認めるのは難しい。
- ^ 当時は大韓帝国の少尉。キリスト教徒で、箕明学校の教師でもあった。後に大韓民国臨時政府の軍務次長。
- ^ ハーグ密使事件の3人の密使の1人。
- ^ 夏目漱石も元首相の暗殺には驚愕しつつも、安は独立活動家であるとその動機を判断していた。ただし被害者の1人である中村是公は漱石の親友でもあり、漱石は植民地民に対して同情は示さずに、事件も批判的にとらえていた。(「韓満所感」、「満韓ところどころ」も参照)
- ^ 日本が1人の朝鮮人を殺せば10人の義兵が決起する、10人の朝鮮人を殺せば100人の義兵が決起するという意味で、自分を含めた自己犠牲によってさらに同胞が決起するだろうという趣旨の発言。
- ^ 1人が自らの命を捨てて1人の要人を暗殺すれば、万民が救われる。一つの殺人で、一切を救わんとする一殺多生という教え。
- ^ 大韓帝国総理李完用の暗殺未遂犯。
- ^ 韓国併合の方針は、すでに暗殺前に日本で閣議決定していた。(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 1909年7月6日)。伊藤には朝鮮は保護国に留めるべきという日露戦争以前からの腹案があったが、決定に至る過程で主張を取り下げており、閣議決定にも反対しなかった。このため併合と伊藤の死には直接の因果関係はないが、一進会が安の裁判中の1909年12月6日に日韓合邦運動を起しており、もともと期日も未定だった併合をより早く実現するために事件を政治的に利用する動きがあった[98]。
- ^ この地域は現在も少数民族として朝鮮族が居住しているほか、韓国人も外国人として在留している[114]。
- ^ 伊藤博文の同郷の河野道友という人物の娘で、事件直前に伊藤からもらった、李皇太子と伊藤が写った写真を持参。
- ^ 「内鮮融和運動」は宇垣一成総督が推進した朝鮮人の皇民化計画で、後を継いだ南総督はそれをさらに推し進める立場だった。
- ^ 金九の長男の金仁は、安重根の姪の安美生と結婚しており、姻戚関係にあった。このために安俊生が内鮮一体に賛同したことは、彼とっては(金九の家長的権威の無視であって面子を潰されたことになるので)家族的な大問題であり、許されざる行為であった。
- ^ 満州事変時に陸軍大臣。後に関東軍司令官。戦後、A級戦犯として終身刑になった。内鮮一体、創氏改名は彼の代で提唱されたもの。個人的には穏和で誰にでも人当たりの良い人で、安俊生らとの面会でも気さくに振る舞ったことが記されている。
出典
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