吉本新喜劇 成り立ち・歴史

吉本新喜劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 13:38 UTC 版)

成り立ち・歴史

創立

1959年[4]3月1日うめだ花月劇場開場と同時に「吉本ヴァラエティ」として発足。第一号の演目は花登筐脚本の『アチャコの迷月赤城山』(サブタイトルに『忠治以外傳』とある)。出演者は花菱アチャコ佐々十郎大村崑芦屋小雁中山千夏ほか。同日開局したMBSテレビとのタイアップとして生まれ、創設者の八田竹男(後の吉本興業社長)をして「テレビ時代をにらんだ新たな演芸のビジネスモデル」として、うめだ花月とMBSテレビの看板となるべく、まさに社運をかけて育成された[5]

初期には花菱アチャコや東五九童雷門五郎笑福亭松之助大村崑ら既存のスターに頼っていたが、やがて他劇団などからの引き抜きや自前のスター発掘を行うようになり、守住清、平参平白羽大介秋山たか志白木みのる花紀京ルーキー新一、森信、財津一郎岡八朗原哲男桑原和男らが台頭するようになった。

座付き作家が演出を兼ねることが多く、黎明期から当時20代の青年ながら抜擢された竹本浩三[注釈 3]、檀上茂[注釈 4]らが本公演の台本と演出を手掛けた。また、民放各局で放映されていた『爆笑寄席』(KTV)や『あっちこっち丁稚』、『花の駐在さん』(ともにABC)などでも、ほとんどの台本と演出を「吉本新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」(後述)が始まるまで手掛けた。

1964年6月ごろから、吉本ヴァラエティを改め「吉本新喜劇」と正式呼称するようになったが、すでに1959年の吉本ヴァラエティ第1回公演には「吉本新喜劇」とうたわれている。また、吉本ヴァラエティから吉本新喜劇への移行の過程で一時「吉本コミカルス」や「吉本ボードビル」と名乗っていた時期もあったが、当時は芸人が舞台に出るとすぐにコケて笑いを取ろうとすることが多く、関西お笑い界ではそれをもじって「吉本コケカルス」との別称もあった[6]

なお、上演開始からちょうど50年経過に当たる2009年3月1日から3月9日まで、この誕生経緯をなぞった50周年記念興行(通常の45分公演を70分に拡大したもの)が行われた。

3チーム制時代の新喜劇

かつては大阪と京都に3つの吉本直営の演芸劇場(大阪に「なんば花月」と「うめだ花月」、京都に「京都花月」)があり、劇座員を3つの組に振り分ける3チーム体制となっていて、それぞれ10日単位(月上旬を上席、中旬を中席、下旬を下席と呼んでいた)で各チームが各劇場に出演し、ひと月で全劇場を回るローテーション制(京都→うめだ→なんばの順で移動する)を繰り返していた。2019年現在も活躍中のベテラン座員はほとんどがこの3ヶ所のいずれかで初舞台を踏んでいる。

うめだ花月での公演は毎日放送で『花月爆笑劇場』として土曜日の12時から、なんば花月での公演は朝日放送で『お笑い花月劇場』として土曜日の13時から、いずれもテレビ中継されていた。

ちなみに、京都花月とうめだ花月は同じ芝居がかかり、なんば花月は両劇場にはかからない新作が上演されていた[注釈 5]。これは、上記にあるように毎日放送(うめだ花月からの中継)と朝日放送(なんば花月からの中継)がそれぞれ新喜劇を放送していたため、区別するためであると考えられる。

松竹新喜劇との棲み分け

大阪における笑演芸の劇団として、かつては日本を代表する喜劇役者の一人といわれた藤山寛美が率いた松竹新喜劇がある。同じ「新喜劇」を名乗るが、その生い立ちや内容、構成、演出法など両者は大いに異なる。

吉本新喜劇は花月で上演される漫才落語、諸芸の間に組み入れられ、コントの延長的な軽演劇である。テレビ中継されることもあり「芝居の途中から入場しても笑える」というコンセプトを持っていた。対して松竹新喜劇は泣きと笑いを交えた本格的な狂言・芝居であり、他の芸と組んで興行を打つことはない。しばしば松竹新喜劇は松竹芸能の演芸の常打ち小屋(劇場)であった、角座や浪花座で他の演芸と同時に上演されたように誤解されるが、そのようなことはなく、角座と同じ道頓堀・櫓町にあった中座に本拠に置いていた。松竹系で吉本新喜劇に相当する一座は松竹爆笑劇などがあたる。

松竹新喜劇は歌舞伎役者の出である曾我廼家五郎曾我廼家十郎が結成した日本初の本格喜劇「曾我廼家兄弟劇」をその源流とする。五郎と十郎は大阪に古くから伝わる伝統芸能・仁輪加(にわか)を改良して本格演劇に仕立てた。仁輪加は本来即興で演じる歌舞伎などのパロディーなどであり、東京で言う「アチャラカ」(=軽演劇。ただしこちらはオペラのパロディー)と同義であるが、このような経緯を持つため松竹新喜劇は舞台中心の本格演劇に位置付けられている。内容も人間の業を描いたものや人情ものなどが多く、ギャグは入るが本筋の通ったものである。

一方の吉本新喜劇は常々「漫才芝居」と形容されるように、ドタバタ中心のナンセンス軽演劇であり、一種のスラップスティック・コメディである。ストーリーよりもギャグ、演技よりもキャラクター性を重視する[注釈 6]。これはもともと吉本新喜劇がテレビ番組向けに製作されたものであり、テレビ中継で名を売り花月劇場に観客を呼び込む「客寄せ」の役割を担ってきたことによるものである。両者は比較されることを嫌い、吉本側も「ウチらと向こう(松竹新喜劇)は、たとえ同じスポーツであるにしても種目が違う」と言い切っている。

大雑把に言えば吉本は師弟制から競争制になり、芝居内容も現代に合ったドタバタな享楽を追求したのに対し、松竹は最後まで藤山寛美を中心とする師弟制で、上方の伝統的な人情ものの色彩が強かった、といったところである。また、師弟関係にしても、曾我廼家五郎八門下の井上竜夫を移籍させたはいいが、吉本で育ってしまった。
ビートたけしが「藤山さんはボンクラにも最低5万円渡してやるんだって。そうしねえと若手が生活に困って芝居に専念できねえからって。本当かね」と発言した(かつて出演していたラジオ番組オールナイトニッポンで、高田文夫と松竹の話題に触れたトークでのこと)。これは雑誌『笑芸人』やたけしの著書に書かれていたことである。この話が本当とするならば、松竹新喜劇と比べると吉本新喜劇の座員たちの生活は恵まれているとは言えず、若手の月給は8万円程度と言われている。また、アルバイト先はベテラン座員(島田一の介など)が経営するスナックも多く、若手座員が働く姿も時折見られるという。

なお、なんばグランド花月(NGK)がオープンした時、松竹新喜劇の顔であった藤山寛美は団員を引率して林正之助を表敬訪問している。この時、道頓堀・櫓町の中座から、千日前のNGKまで派手に行進して注目を浴びた。

2007年には『コヤブ新喜劇 〜座長になって1年たちましたスペシャル〜』に、藤山寛美の娘で松竹新喜劇にも出演する藤山直美がシークレットゲストとして出演した。これは小籔千豊も「歴史的瞬間」と呼ぶほどで、かつての関係を知る人々を大いに驚かせた。2009年には辻本茂雄座長の芝居『茂造〜閉ざされた過去』に3代目渋谷天外が出演を果たしている。

吉本新喜劇から松竹新喜劇に移籍した例としては高石太がいる。吉本新喜劇の座長でも松竹新喜劇中興の祖藤山寛美を意識している者が多く、間寛平は芸名を寛美から一字貰った。また内場勝則は劇中でアホボンと称するキャラを演ずることがあるが、この名称は元々寛美が松竹新喜劇で演じていたキャラにちなんだものであるとされる。

新喜劇人気の下火と復活

1980年頃に始まる漫才ブームは吉本興業のタレントの全国区進出を成功させ、吉本興業は業容を拡大。トップスターの全国進出(すなわち東京進出)が相次いだ。一方で、吉本新喜劇は、おおむね旧態依然とした演出を続け、中高年層の支持は維持されていたものの、漫才ブーム心斎橋筋2丁目劇場といった笑いの新しい波の洗礼を受けた若者層には飽きられていった。また1982年から木村進間寛平室谷信雄の3座長体制となっていたが、室谷が1984年末に喉頭癌が発覚し退団。木村が1987年に「三代目博多淡海」を襲名するも、翌年10月に脳内出血で倒れ障害が残り吉本を退社。そして1989年春には間寛平も東京進出への強い希望から、6月の公演を最後に新喜劇を退団する事態となり、客足はさらに遠くなっていた。

同時に各劇場の老朽化が進んだことで、京都花月閉館(1987年)となんば花月閉館(1988年)により本拠地はうめだ花月のみになり、伝統の3チーム制も崩壊する事態となった[7]

新喜劇やめよッカナ?キャンペーン

そのような中、1989年4月、木村政雄が吉本興業本社制作部次長に就任。新喜劇を改革・再生させるには世代交代と全国区に売り出すことが必要であるとの方針の下、再生プロジェクトとして、期限までに観客動員数が目標値に達しなければ吉本新喜劇自体を解散というセンセーショナルな「吉本新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」を開始[8]。この時に設定された目標観客動員数は1989年10月から1990年3月までの半年間で延べ18万人、1日平均に換算すると約1000人であり、当時のうめだ花月の座席定員から換算して70%近い平均稼働率(1日2回公演の場合)を上げなければ目標値に達しないという、非常に高いハードルであった。

キャンペーン開始前に木村は座員全員にいったん解散を宣告した。高齢化していた座員の若返りを目指すため、新たに新喜劇のプロデューサーに就任した大﨑洋と共に座員一人一人と面談を行い、「これからは若手を中心にキャスティングします。もしかしたら、通行人Aとかをやってもらうかもしれません。それでもやっていただけますか?」とベテラン・中堅座員にヒアリングを行い、今後の手法に意が沿わない座員は外れてもらうという再入団システムを導入した。ヒアリングの結果、かつて新喜劇の顔であった花紀京岡八郎が「勇退」という形で事実上の退団となり、その他中堅・ベテラン座員の多くも戦力外通告され退団。船場太郎原哲男泉ひろしら一時的に残留したベテランも脇に回るなど、世代交代に向けて準備を進めた[9]

ベテラン・中堅座員の退団に合わせ新たに入団したのは、大﨑がプロデューサーを務めていた心斎橋筋2丁目劇場に出演していた若手芸人であった。当時2丁目劇場では一大ムーブメントを起こしていた公開生放送番組『4時ですよーだ』が終了。同時にダウンタウンが東京に進出し、頭打ち状態にあった。そこで今田耕司東野幸治130Rを中心とした2丁目メンバーを新喜劇に入団させて彼らをメインキャストに抜擢し、舞台の若返りを図った。この2丁目からの入団メンバーには後に座長に就任する石田靖辻本茂雄吉田ヒロもいた。この大改革はマスコミが大きく取り上げ、ニュース番組やバラエティ番組でも話題となった。キャンペーンのイラストには「笑い死に」をテーマに蛭子能収が起用された[8]

キャンペーン開始時の10月は1ヶ月で7本の作品を上演した。開始当初は新喜劇定番のギャグを減らした内容で、芸名をそのまま役名にしないなど実験的な要素が多く取り組まれた。しかしこれらの改革は劇場やテレビでもウケが悪く動員は苦戦する。しかしこの頃発売した過去30年の舞台写真や歴代座員の名鑑を収録した書籍「吉本新喜劇名場面集1959‐1989」や、みうらじゅんがプロデュースした過去の映像を収録したビデオ『保存版 吉本新喜劇 ギャグ100連発』が前述のマスコミが大きく取り上げた影響もあり好評な売り上げを見せていたため、キャンペーン途中から芸名=役名という従来の方式に戻され、また定番ギャグも増やした新喜劇本来の路線に変更。観客動員が増え、キャンペーン期間終了を目前に控えた1990年3月中旬、ついに観客動員数は目標数の「1989年10月から数えて延べ18万人」に達し、新喜劇は存続を果たすこととなった[10]

観客動員達成直後の1990年3月31日、うめだ花月は老朽化で閉館。翌4月1日からはなんばグランド花月での毎日公演が始まった。

ちなみに、この「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」の頃から1997年6月末頃までのなんばグランド花月での新喜劇の演出を担当したのは、ほぼすべてが女性演出家の湊裕美子である。彼女は、その後、1997年秋〜1998年秋にかけて放送された東京発のゴールデンタイムの全国ネットの新喜劇の番組である『超!よしもと新喜劇』と『超コメディ60!』でも演出を担当した。

また、1991年にはサントリー「ポケメシ」のCMに出演してチャーリー浜が披露した持ちギャグ「…じゃあ~りませんか」が、全国区のブームとなり、その年の新語・流行語大賞を受賞。吉本新喜劇の知名度を全国に大きく高めることとなり、同時に行われていた吉本興業の東京再進出に大きく貢献することとなった。

ニューリーダー時代以後

1991年秋、ダウンタウンの全国区新番組開始に伴い、今田耕司、東野幸治、130R、木村祐一、吉田ヒロが東京進出となり新喜劇を卒業(ヒロのみ1年後に復帰)。ここから数年間は桑原和男、池乃めだか、石田靖を中心とした公演を行う。そして1995年、新たに内場勝則、辻本茂雄、石田靖の3人が実質的座長である「ニューリーダー」に就任。1999年には吉田ヒロを加えた4人が正式な「座長」に就任した。

2006年から2007年にかけて、石田とヒロと交代する形で小籔千豊川畑泰史が、2014年からすっちー[注釈 7]、「金の卵オーディション2007」で入団した酒井藍2017年から座長となり、この体制で2019年まで推移した。オーディションによる若手に加え再入団を含む中堅・ベテランの加入で全盛期を上回る大所帯となっているが、近年は「やめよっカナ?」以降も残留したベテラン勢の鬼籍入りが相次いでいる。

2019年2月には辻本・内場の座長退任と、過去にはすっちーの座長就任までの2年間にわたって実施されていたリーダー制度の再開とポジションの正式な新設が発表された。(詳細は座長及び副座長格(リーダー)の項を参照のこと)

2022年からは、吉本興業が創業110周年となるのをきっかけに新喜劇を再度改革するため、間寛平をゼネラルマネージャー(総責任者,略称はGM)に据えることが予告され[11]、同年2月9日には東京ポートシティ竹芝ポートホールでGM就任記者会見が開かれた[12]。その後、同年8月には小籔が、2023年3月20日のNGK通常公演をもって川畑が座長を退任[13]。翌3月21日、新たに吉田裕アキが座長に就任することが発表された。

各劇場(関西)の現況

存続決定後、キャンペーンの一環として心斎橋筋2丁目劇場出身の若手を中心に上演されていた「ニュー吉本新喜劇」は、1989年11月、うめだ花月からなんばグランド花月に拠点を移し、現在に至っている。基本的に舞台は大阪という設定だが、観光客誘致のために新喜劇放送地域の地方(鳥取県熊本県など)を舞台にすることもある。後述の場合は、舞台となる地域の首長[注釈 8]、または地域出身のタレントがゲスト出演してPRを行うシーンが入る。

新喜劇に出演した安倍晋三

なんばグランド花月での新喜劇公演では、映画等の告知を兼ねて吉本以外の芸能事務所に所属する芸能人や有名人が出演することもあり、1996年には、来日していたジャッキー・チェンが、なんばグランド花月で公演された新喜劇に「国際警察の刑事」役で飛び入り出演した。2019年4月には当時の内閣総理大臣安倍晋三が6月に大阪で行われるG20の告知のためサプライズ出演[14]。(この時の公演は、MBSテレビの『よしもと新喜劇』でも放送された)。他にもアグネス・チャン香取慎吾、また、バラエティ番組とのタッグで草彅剛ユースケ・サンタマリアテレビ朝日ぷっすま』にて)、ダウンタウンさまぁ〜ず雨上がり決死隊キャイ〜ンTBSリンカーン』にて)、笑福亭鶴瓶ももいろクローバーZ関西テレビ桃色つるべ〜お次の方どうぞ〜』にて[15])、ナインティナインと中居正広フジテレビめちゃ×2イケてるッ!』にて)、キャラクターではハローキティドラえもん野比のび太が宣伝も兼ねて出演を果たしており、この場合全国版のスポーツ新聞や芸能ニュースでも報じられる。

特殊な例では、2006年2007年の3月に、吉本と芸能提携を結んでいるプロ野球チームのオリックス・バファローズ所属の選手(清原和博中村紀洋など)が出演した『新喜劇にバファローズがやってきた!』の公演、毎年9月、現役ラグビー選手らがゲスト出演する『ラグビー新喜劇』の公演、毎年12月第2週に上演される年末ジャンボ宝くじタイアップ作品では、幸運の女神(宝くじ普及活動を行う女性アシスタント)がゲスト出演する。

なんばグランド花月

新喜劇とベテラン芸人(漫才や落語、外国からのゲスト出演で手品など)が中心で、以下の公演構成となっている。

  • 平日:11時から2回公演
  • 土・日・祝日:9時45分から3回(翌日が日祝日の場合は4回)公演

祇園花月

NGKとほぼ同様のプログラムで漫才コンビ4〜5組、週替わりで新喜劇が上演されている。また、芝居終了後に出演者が揃ってのエンドトークが行われており[注釈 9]、小中学校の夏休み・冬休み期間中には出演者サイン色紙のプレゼントを兼ねたじゃんけん大会が行われる。

  • 平日:12時30分から開演
  • 金曜:平日の公演に加えて、不定期で19時から新喜劇のみの「よるよる新喜劇」
  • 土・日・祝日:平日公演に加え、10時30分から新喜劇のみの「あさあさ新喜劇」,15時30分からの公演

このほか、2014年末に開場したよしもと漫才劇場では若手メンバー中心に「吉本極新喜劇」と題して不定期で上演を行っている。

東京での定期上演と現況

「やめよッカナ?キャンペーン」によって全国的に知名度を高めた新喜劇は、1991年に初の東京公演となる「帝都公演」を開催して大成功を収める。その後テレビ放送でも、全国において木曜20時台の視聴率を確保したいという毎日放送の思惑と、新喜劇を全国区化させたいという吉本の意向が合致し、『超!よしもと新喜劇』が1997年秋から東京で収録され、新喜劇が東京発の形でゴールデンタイムに全国ネットでテレビ放送されるようになった(後に『超コメディ60!』としてリニューアルされた)。しかし、舞台は新喜劇なのに仕掛けがドリフ調であったり、新喜劇や関西とはまったく関係のないゲストが多数出演したりしたことから、従来からのファンにも見放され、1998年秋に終了。

この1年間は、本家NGKからも特に知名度と笑わせる力のあるベテラン勢が駆り出されたため、リーダーに相当するポジションで大阪に残ることができたのは実質的に吉田ヒロだけであり(なお、のちに座長となる当時の4人のニューリーダーのうち、『超!よしもと新喜劇』〜『超コメディ60!』に一度も出演しなかったのはヒロと石田靖。また、女優陣では、この当時のマドンナ役の一人であった中西喜美恵なども、『超!よしもと新喜劇』〜『超コメディ60!』に一度も出演しなかった)、ニューリーダー制開始直後の柔軟さ・斬新さから一転、まさに「やめよッカナ?キャンペーン」直前の状況が再来していた。

それでもやはり東京公演をあきらめたわけではなく、1999年からは場所と方式を変えてスタジオアルタで「吉本新喜劇の週末」を定期上演。この公演にはベテラン勢は出演せず、各公演の全出演者も10人未満という少人数での新喜劇であったが、主に内場、辻本、石田の3座長と当時全国区でブレイクしていた山田花子藤井隆を中心に上演され、『ギャク輸入!新喜劇』(朝日放送)として関西地区で放送。2000年にビデオ化もされた。

2001年には、ルミネtheよしもとが開業し、今度は東京オリジナルの台本と出演者、今田、東野などNGK新喜劇経験者、NGKから東京に移籍した石田を座長に据えた公演(メンバーは後述)が開始され、現在に至る。ルミネ新喜劇は比較的若手のメンバーで構成されており、専属座員および座付き作家は基本的に存在しない(若手芸人が作家を兼業することもある)。公演は不定期で2〜3ヶ月行われ、テレビ出演の多い今田・東野座長回は基本的に月一公演となる。2014年以降は座員座長はそのままで名称を変更し、「SPコメディ」という名称に変更された。

また、2009年4月末から2011年11月末まで品川に開設されていたよしもとプリンスシアターでは、辻本、内場などNGK新喜劇座員が中心となる「本場吉本新喜劇」が、原則として毎週火曜から木曜または金曜にかけて上演されていた。NGK座員による新喜劇の東京上演は2014年以降、なんばグランド花月の出張版である「東京グランド花月」を上演しているほか、毎年8月には小籔座長による単独公演も実施されている。

海外公演

これまで1997年3月15日にニューヨーク[16]ロンドン台湾上海で、吉本新喜劇は上演され、さらに2006年7月には日本国内3大都市と併せてハリウッドコダック・シアターでも「すっごい吉本新喜劇LA&JAPANツアー」と銘打って特別編成で上演された。座員は今田耕司やレイザーラモンHGなど新喜劇出身のルミネtheよしもと出演者が中心であったが、大阪から内場勝則未知やすえ池乃めだか、そして新喜劇外からピン芸人たむらけんじも参加した。

おきなわ新喜劇旗揚げ

2014年9月には沖縄出身の吉本芸人で構成された「おきなわ新喜劇」の旗揚げが発表された。同年12月から全国ツアーが行われ、2015年4月からはよしもと沖縄花月でも上演されている。その後本家吉本新喜劇とも合同で公演を行った。

九州新喜劇旗揚げ

2016年8月に福岡吉本にて、「新喜劇やめよッカナ?キャンペーン」時代まで副座長を務め、現在は福岡吉本に所属する寿一実(旧芸名・中川一美)の還暦祝い座長公演が嘉穂劇場にて行われた。

2018年2月には、正式に寿を座長とする「九州新喜劇」が旗揚げされた。座員は福岡吉本所属タレントで、オリジナル新喜劇となるほか、マドンナオーディションの実施も発表されている[17]


注釈

  1. ^ 関西の子供たちは、このテレビ放送でボケとツッコミを覚え、立派な関西人になるとされる[1]
  2. ^ その後、2011年12月23日の特番を経て、2012年7月15日より『よしもと情熱コメディ〜TVのウラ側で大騒ぎ!モンスターAD奮闘記〜』としてレギュラー放送再開。
  3. ^ ヒット曲の『アホの坂田』など吉本タレントが唄う歌謡曲の作詞も多く手掛け、新喜劇50周年(2009年)記念公演の監修に当たった。現在、吉本興業文芸顧問、帝京平成大学現代ライフ学部教授、帝塚山学院大学文学部講師、大阪市「上方芸能文化顕彰」選考委員。
  4. ^ 竹本と共に吉本新喜劇を立ち挙げ隆盛させた作・演出家であり、現在も特別公演では脚本・演出を担当する一方で、後進の育成も手掛けている。
  5. ^ 例えば、あるチームが上席に京都で掛けた芝居は、引き続いてうめだの中席で同じ芝居を上演されるが、下席のなんばでは別の新作を上演する。このなんばの新作は基本的に京都、うめだでは上演されない。
  6. ^ ただしギャグや演者のキャラクターが今ほどに重視されるようになったのは間寛平池乃めだかチャーリー浜等が台頭後の時代の話であり、かつては吉本新喜劇もストーリー性をそれなりには重視していた。
  7. ^ 高井俊彦烏川耕一清水けんじとともに2012年5月から2年間リーダーを務めた。
  8. ^ 知事や市長、あるいはご当地ゆるキャラ
  9. ^ 過去には木村進の提案で1987年から「うめだ花月」で同様のトークが行われていたことがある。
  10. ^ 複数の座長が出演する場合、最初に名前がある者が作成者である(例:酒井藍とすっちーが共演した2021年4月公演「新生活は幽霊屋敷で……」では作成者の酒井が座長[19])。
  11. ^ 新喜劇座員のSNSやブログでは、その前からリーダーという表現は用いられている。
  12. ^ 唯一の特例としてチャーリー浜については座長経験がなかったが、1991年に自身の持ちギャクが流行語大賞を受賞するなど新喜劇の知名度向上に貢献したことが認められて昇格した。
  13. ^ 女性かつ一部のマドンナより年下である酒井の座長就任後は、マドンナが酒井の母親役を務めることもある。
  14. ^ 浅香、島田珠代などもごく稀ながらヒロインを演じることがある。
  15. ^ 曾我廼家五郎一門の曽我廼家蝶五郎の門下。漫才では松葉蝶子香島ラッキーを相方にしていた。
  16. ^ 木戸新太郎作家の友村順一に師事、「ポンカラキンカンコン」のギャグで新喜劇草創期を支えた。
  17. ^ 退団後の1993年に「難波金融伝ミナミの帝王3「金貸しの条件」」にソープ嬢役で出演して、ヌードを披露している[28]
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 元座長。
  19. ^ 岡八郎と漫才コンビを組む。
  20. ^ 第9回目より特別出演。
  21. ^ 初代芦屋凡凡。
  22. ^ 1969年9月入団。
  23. ^ 後に笑福亭仁鶴夫人。
  24. ^ 1983年に「おかけんた・ゆうた」を結成して退団
  25. ^ 1960年ごろ出演。作曲家加納光紀の夫人。
  26. ^ 初代雷門五郎。
  27. ^ 後に三代目博多淡海を襲名も、病気療養のため返上。
  28. ^ 1960年入団。
  29. ^ a b c 元専科。
  30. ^ a b c 後に退団し「ルーキー爆笑劇団」を旗揚げ。
  31. ^ 後に大阪市会議員に転身し、議長も務めた。
  32. ^ a b c 松竹新喜劇に移籍。
  33. ^ 座長経験はないが、「…じゃあ〜りませんか」のギャグがサントリー「ポケメシ」のテレビCMで全国的にブレークし、1991年の第8回日本新語・流行語大賞で年間大賞を受賞、新喜劇の東京進出に大きく貢献したとされ重鎮ポジションに昇格した。
  34. ^ 後にWヤングを結成。
  35. ^ フラワーショウの華ぼたん。
  36. ^ 博多仁輪加の大御所。木村進の父。
  37. ^ 後のレツゴー三匹のレツゴーじゅん。
  38. ^ 1967年1月入団。人気を博したが、借金問題で退団した。
  39. ^ 松原隆一郎は、客との合意の上で成立する、何年も使ったギャグを知っていることを前提とした笑いであるとする。また尾上圭介は、大阪では面白いヒトで笑う傾向があり、お決まりキャラクターで笑わせる面が強いとしている[1]
  40. ^ 阪田真己子は、ズッコケることで笑いどころを視覚的合図として送るという信頼関係が構築されており、それを受け入れない部外者には理解できず時に怒りさえ覚える、としている[1]
  41. ^ Mr.オクレ、レイチェルなど日本人の姓名からかけ離れた芸名を用いている演者は本名やその一部を用いる(オクレ=岡田信行、レイチェル=吉田令など)。池乃めだかは中井一郎もしくは池乃一郎のどちらかを名乗る(中井は池乃の本名)。

出典

  1. ^ a b c 岩本 2009。
  2. ^ お留守番日記4 - 浅香あき恵「あき恵ちゃんのチョベリグ日記」 - Yahoo!ブログ
  3. ^ 2011年7月2日放送の『嵐にしやがれ』(日本テレビ)での今田耕司の発言より。なお、オール巨人ブログでは2009年から禁止と説明されている。
  4. ^ 酒井藍が吉本新喜劇座長に就任決定! 史上初の"女座長"が誕生! 吉本新喜劇公式ホームページ
  5. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  6. ^ 『上方芸能・笑いの放送史』(澤田隆治著、日本放送出版協会1994年
  7. ^ 木村政雄の私的ヒストリー|木村政雄の事務所
  8. ^ a b 「ポンワカポンワ吉本新喜劇アゲイン / 竹中功」『広告』第30巻第6号、博報堂、1989年11月15日、51頁、NDLJP:2679980/27 
  9. ^ 木村政雄. “木村政雄の私的ヒストリー第115話”. 木村政雄の事務所. 2022年7月3日閲覧。
  10. ^ 木村政雄. “木村政雄の私的ヒストリー第117話”. 木村政雄の事務所. 2022年7月3日閲覧。
  11. ^ 間寛平が吉本新喜劇初のGM就任へ サンスポ 2021年12月29日付
  12. ^ 間寛平、引退思案中に“吉本新喜劇GM”に抜擢「大スターを作ってきたい」エンタメRBB 2022年2月9日付
  13. ^ 吉本新喜劇・川畑泰史、新喜劇座長勇退を発表 スポーツ報知 2023年3月20日付
  14. ^ 安倍首相、吉本新喜劇に出演 舞台上にSP2人配置 サンスポ 2019年4月20日
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