かげろふの日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/11 02:16 UTC 版)
登場人物
- 私
- 藤原道綱母。一条のほとりに居住。父と妹がいる。
- あの方(柏木)
- 藤原兼家。役所で私の父に先ず真面目とも冗談ともつかずに仄めかしておいて、ある日馬に乗った男に文を持って来させた。私の前にも、通い妻がいて、子供がたくさんいる。私の後にも、小路の女、近江などの通い妻ができた。西の京に居住している妹がいる。
- 私の父
- 藤原倫寧。昔気質で、柏木の立派な文にしきりに恐縮がり、娘に返事を書くように促す。陸奥守に任命されて奥州へ下り、10年間ほど、受領として遠近の国々へ行っていた。京へ上っても、四五条のほとり居住し、娘とは別宅。
- 道綱
- 私の一人息子。藤原道綱。母思い。
- 兵衛佐
- 関白殿の子息。西山にこもっている私を心配し訪ねて来る。
- その他の人々
- 私の家に仕えている古女房など。私の伯母。
作品評価・解釈
『かげろふの日記』は、堀辰雄が描こうとしていた「恋する女たちの永遠の姿」を、日本の王朝女流日記文学に見出し執筆した第一作目の作品であるが、依拠とした『蜻蛉日記』の作者で「道綱の母」として語られる女性は、堀の『かげろふの日記』で、新たな光が与えられたと、縄田一男は解説している[10]。
神品芳夫は、堀辰雄がリルケの『マルテの手記』を愛読し、リルケの称揚する「愛に生きる女たち」の生のかたちに最も印象づけられたとし[8]、「愛されることを求めず、愛することに徹して、いつしかその愛が相手を突き抜けて高まってゆく」という生き方をするのが、リルケのいう「理想の女性」であり、その具体例としてリルケが挙げた、サフォー、エロイーズ、『ポルトガル文(ぶみ)』のマイアンネ・アルコフォラド、イタリアの詩人ガスパラ・スタンパなどは、いずれも失恋やその他の不幸に堪えて、愛を保ちつづけた女性ばかりであることを説明している[8]。
そして堀がリルケの作品を通じ、そこに描かれる女たちの生き方に感動して、日本の王朝女流日記の作者たちにもそれに類似した「生のかたち」があることに思い至り、『かげろふの日記』や『姨捨』などの一連の王朝ものが書かれることになったことに言及しつつ、『かげろふの日記』が堀の意に満たないものになってしまったことを自ら告白していることを神品は鑑みて、世評では、堀がリルケに触発され王朝物を書いたとして好評価しているが、そのリルケが堀にもたらした愛の女性のイメージが、堀の内面で膨らみ発展した「未来のロマンの空間の大きさ」に比し、実際に出来上がったものは、その「未来のロマンの空間」にほんのわずか着手したものにすぎなかったのだろうと考察し、その「愛の女性のイメージ」は、のちに執筆される『菜穂子』の方によく生かされていると解説している[8]。
山本裕一は、終盤の章「その七」で「逆転した女の心理」が描かれ、その「別人のやうに」思える女に不安になり、嫉妬に苦しみ乱暴になる男が描かれている「その八」には、『聖家族』にある「どちらが相手をより多く苦しますことが出来るか、私たちは試して見ませう」という言葉に象徴されるような「苦しめ合う愛」のモチーフが見受けられるとしている[6]。また原典の『蜻蛉日記』に見られる「沸騰して逆巻く女の激情怨念」が、堀の『かげろふの日記』では「萎え、冷え」ているという批評[11] があることにも山本は触れながら、堀のヒロインには、「分析的、自嘲的な、しかし夢みがちな近代的な女性」としての性格設定があるとして、他の評者の分析(ヒロインに客観的、分析的態度があることなど)[12] を鑑みながら解説している[6]。
また山本は、『かげろふの日記』が『菜穂子』の前編『物語の女』(「楡の家」第一部)[注釈 6] の続編として構想されたと思われるふしがあることが福永武彦によって指摘されていること[13][14] を敷衍し、『かげろふの日記』が単に王朝小説の嚆矢ばかりでなく、『聖家族』、『物語の女』、『菜穂子』など、生涯にわたって書き継がれるロマン「菜穂子サイクル」の作品群に繋がる作品だと解説している[6]。
三島由紀夫は書簡形式の自作『みのもの月』が、「王朝日記世界の模写」であり[15]、「日本古典、および堀辰雄によるその現代語訳」から影響を受けた文体の作品だと自作解説し、堀の王朝ものが影響にあったことを示唆している[16]。そして、堀の『かげろふの日記』が、堀の愛した『ユウジェニイ・ド・ゲランの日記』などの女流日記文学の系統に繋がっているように、三島自身もまた同じく、『美徳のよろめき』などの執筆に際して、自身の文学に意識的に王朝女流日記の「隠された熾烈な肉感性」を掘り起こそうとしていたと語り、とりわけ堀の『物語の女』や続編『ほととぎす』が好きで、堀の仕事を意識していたことを述べている[9]。柳川朋美はこれを敷衍し、三島の『みのもの月』と、堀の『かげろふの日記』を論考し、原典にはない堀の最終部の展開が、三島の作品に影響を与えていると指摘し[17]、主人公の女が自分を苦しめた夫を、逆に自分の方が翻弄し、苦しめるようになるという部分の影響関係を解説している[17]。
おもな刊行本
- 『かげろふの日記』(創元社、1939年6月20日)
- 収録作品:「七つの手紙」「かげろふの日記」「ほととぎす」
- 文庫版『かげろふの日記・曠野』(新潮文庫、1955年9月)
- カバー装幀:難波淳郎。解説:丸岡明
- 収録作品:「七つの手紙」「かげろふの日記」「ほととぎす」「姨捨」「曠野」
- 『純愛――時代小説の女たち』縄田一男編(角川書店、1992年12月20日)
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h 「解題」(全集2 1996)
- ^ a b c d e f g h i j 堀辰雄「山村雑記」(のち「七つの手紙」)(新潮 1938年8月号)。全集3 1996, pp. 59–76
- ^ 丸岡明「解説」(かげろふ 1955)
- ^ a b c d 縄田一男「作品解題」(縄田 1992, p. 396)
- ^ a b c d e 「鎮魂の祈り」(アルバム 1984, pp. 65–77)
- ^ a b c d e 山本 2004
- ^ a b c 谷田昌平編「年譜」(別巻2 1997, pp. 407–422)
- ^ a b c d e 神品芳夫「堀辰雄とリルケ」(國文學 1977年7月号)。別巻2 1997
- ^ a b 三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 「菜穂子」修正意見」(新潮 1957年6月号)。三島29巻 2003, pp. 541–551
- ^ a b c 縄田一男「藤原道綱の母」(縄田 1992, p. 206)
- ^ 塚本康彦「平安朝文学――堀辰雄の日本的なもの」(解釈と鑑賞 1961年3月号)。山本 2004
- ^ 大森郁之助「『かげろふの日記』の強さと弱さ」(『論考 堀辰雄』有朋堂、1976年)。山本 2004
- ^ 福永武彦「堀辰雄の作品」(『堀辰雄全集』月報、新潮社、1958年)山本 2004
- ^ 竹内清巳『堀辰雄と昭和文学』(六弥書店、1929年)。山本 2004
- ^ 三島由紀夫「あとがき」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年)。三島28巻 2003, pp. 108–115
- ^ 三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」(文學界 1956年8月号)。三島29巻 2003, pp. 241–247
- ^ a b 柳川 2002
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