かげろふの日記 かげろふの日記の概要

かげろふの日記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/11 02:16 UTC 版)

かげろふの日記
作者 堀辰雄
日本
言語 日本語
ジャンル 中編小説
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出改造1937年12月号(第19巻第14号)
刊本情報
出版元 創元社
出版年月日 1939年6月3日
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発表経過

1937年(昭和12年)、雑誌『改造』12月号(第19巻第14号)に掲載された。単行本は1939年(昭和14年)6月3日に創元社より刊行された[1]。刊行の際に若干の改稿がなされ、初出の発表誌では、冒頭に「無名の女」から「***様」に宛てた、600字ほどの献げる言葉が置かれていたが、単行本刊行の際に削除されている[1]

なお、続編(「ほととぎす」)は、1939年(昭和14年)、雑誌『文藝春秋』2月号(第17巻第3号)に掲載され、上記の単行本に同時収録された[1]。のち1946年(昭和21年)7月15日に養徳社より刊行の『曠野抄』の収録された[1]

作品背景

堀辰雄は、フランス文学の伝統を日本の近代文学に加味したとされる作家であるが、その一方で、日本古来の王朝文学にも深い傾倒を示し、一連の王朝ものと呼ばれる作品群を残した[4]。信濃追分(追分宿)の油屋旅館にこもって書かれた『かげろふの日記』は、その第一作にあたり、平安時代女流日記蜻蛉日記』を原典として創作された作品である[1][4][6][注釈 2]

堀は1936年(昭和11年)の11月に『風たちぬ』の「冬」の章を書いた後、最終章が書けずに信濃追分で越冬し、翌1937年(昭和12年)春から、『更級日記』、『伊勢物語』、『蜻蛉日記』や、折口信夫の『古代研究』を読みながら、『かげろふの日記』を9月から書き始めた[5][7]。11月には折口信夫の講義を聴講するなどし、11月中旬に脱稿された[7]。この直後に旅館が全焼し、軽井沢川端康成の別荘を借りて、『風たちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き始められた[5][7][注釈 3]

なお、『かげろふの日記』には、続編の『ほととぎす』があり[注釈 4]、執筆動機が言及されている「七つの手紙」が序として、共にまとめられている[1]。「七つの手紙」は、1938年(昭和13年)、雑誌『新潮』8月号に「山村雑記」の題で掲載されたもの。のちの妻となる加藤多恵子に宛てた書簡である[1]

主題

堀辰雄は、リルケが『マルテの手記』で記した「常にわれわれの生はわれわれの運命より以上のものである事」というイデーに導かれて『風たちぬ』を執筆して以来、その「私に課せられてゐる一つの主題」の発展が、『蜻蛉日記』の主人公・藤原道綱母を取り上げることによって可能であると考え[2]、そこに「恋する女たちの永遠の姿」を発見する[2][5]。リルケを通じて、「愛に生きる女たち」の生のかたち、女たちの生き方に感動した堀は、日本の王朝女流日記の作者たちにもそれに類似した「生のかたち」があることに思い至たった[2][8]

『かげろふの日記』にまつわる話として、堀は『蜻蛉日記』について以下のように語っている。

あの「ぽるとがる文」などで我々を打つものに似たものさへ持つてゐるところの、――いはば、それが恋する女たちの永遠の姿でもあるかのやうに――愛せられることは出来ても自ら愛することを知らない男に執拗なほど愛を求めつづけ、その求むべからざるを身にしみて知るに及んではせめて自分がそのためにこれほど苦しめられたといふことだけでも男にわからせようとし、それにも遂に絶望して、自らの苦しみそのものの中に一種の慰藉を求めるに至る、不幸な女の日記です。 — 堀辰雄「七つの手紙」[2]

堀は、愛する弟モオリスのために自分は虚しい生涯を送った聖女ユウジェニイ・ド・ゲランの日記『ユウジェニイ・ド・ゲランの日記』に対するリルケの思いを[注釈 5]、日本の王朝女流文学を原典とした自らの『かげろふの日記』の中に蘇らせようとした[2][4][5][9]

また堀は、『蜻蛉日記』の持つ特徴として、作者がその折々の「苛ら苛らした気もち」を、その折々の気もちのままに構わずに誇張して、その前後と少し辻褄の合わないことがあっても一向に意に介さない点を挙げながら、『蜻蛉日記』の作者が、すべてを「論理的秩序(logical order)」によっては書かずに、「心理的秩序(psychological order)」によってのみ書いていることを指摘し[2]、そこには、この日記独自のちゃんとした統一がおのずからあるため、それを生かそうとすれば、もはや自分の手を入れる余地がなどはどこにもないくらいであったことを顧みている[2]

よって、最初に「変にくどくどして」いると感じた古典の原作を、新しい視点を加えて整理し、「小説的秩序」を与えるつもりだったが、整理すればするほど王朝の香りが消えてしまうし、そうかと言って、リルケ流の愛の女に作り直すわけにもいかず、虻蜂取らずになってしまったことを反省し、以下のように語っている[2][8]

一読過の印象は、いかにひたむきな作者の痛々しげな姿にもかかはらず、何か変にくどくどしてゐて、いつもおなじ歎きばかり繰り返してゐるやうに見え、どちらかと云へばあまり感じのいいものではないのです。そこでもつて、私はこの日記の本質的にもつてゐる好いもの、例えばあの「ぽるとがる文」などのそれにも似たもの――さう云ふ切実なものだけをそつくりそのまま生かしながらその日記全体をもつと簡潔にして、それに一種の小説的秩序を与へ得たら恐らくずつと我々に近いものになるだらうと信じてゐたのですが、私はその代償としてこの日記そのものの独自性をも危険にさらさなければならぬ事にはさまで深く思い及ばなかつたのです。 — 堀辰雄「七つの手紙」[2]

ヒロイン「藤原道綱の母」

『かげろふの日記』の原典である『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母は、美貌の誉れ高い平安中期の女流歌人であり、関白太政大臣藤原兼家と結ばれ、一子・道綱を儲けたが、兼家には次々と愛人ができ、常に愛情のもつれからくる苦悩を味わうこととなった[10]。『蜻蛉日記』はこの間の事情を文学的にまとめたもので、日本の文学史上に不滅の足跡を留めた[10]

『蜻蛉日記』の中には、以下のような一文があり、『かげろふの日記』の冒頭にも付されている。

なほ物はかなきを思へば、あるかなきかの心地する
かげろふの日記といふべし。

注釈

  1. ^ 蜻蛉日記』の上・中巻を原典としている。
  2. ^ 以降、『ほととぎす』、『姨捨』、『曠野』などの王朝ものが書かれた。
  3. ^ 「死のかげの谷」は12月20日すぎに脱稿されている。
  4. ^ 『ほととぎす』は、『蜻蛉日記』の下巻を原典としている。
  5. ^ 堀辰雄は、『モオリス・ド・ゲランと姉ユウジェニイ』などの随筆を書いている。
  6. ^ 『物語の女』はのちに、『菜穂子』の「楡の家」第一部となる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 「解題」(全集2 1996
  2. ^ a b c d e f g h i j 堀辰雄「山村雑記」(のち「七つの手紙」)(新潮 1938年8月号)。全集3 1996, pp. 59–76
  3. ^ 丸岡明「解説」(かげろふ 1955
  4. ^ a b c d 縄田一男「作品解題」(縄田 1992, p. 396)
  5. ^ a b c d e 「鎮魂の祈り」(アルバム 1984, pp. 65–77)
  6. ^ a b c d e 山本 2004
  7. ^ a b c 谷田昌平編「年譜」(別巻2 1997, pp. 407–422)
  8. ^ a b c d e 神品芳夫「堀辰雄とリルケ」(國文學 1977年7月号)。別巻2 1997
  9. ^ a b 三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 「菜穂子」修正意見」(新潮 1957年6月号)。三島29巻 2003, pp. 541–551
  10. ^ a b c 縄田一男「藤原道綱の母」(縄田 1992, p. 206)
  11. ^ 塚本康彦「平安朝文学――堀辰雄の日本的なもの」(解釈と鑑賞 1961年3月号)。山本 2004
  12. ^ 大森郁之助「『かげろふの日記』の強さと弱さ」(『論考 堀辰雄』有朋堂、1976年)。山本 2004
  13. ^ 福永武彦「堀辰雄の作品」(『堀辰雄全集』月報、新潮社、1958年)山本 2004
  14. ^ 竹内清巳『堀辰雄と昭和文学』(六弥書店、1929年)。山本 2004
  15. ^ 三島由紀夫「あとがき」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年)。三島28巻 2003, pp. 108–115
  16. ^ 三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」(文學界 1956年8月号)。三島29巻 2003, pp. 241–247
  17. ^ a b 柳川 2002


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