「たけくらべ」論争 「たけくらべ」論争の概要

「たけくらべ」論争

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1985年(昭和60年)5月に佐多稲子が「初店」(処女喪失、水揚げ)説を述べたことに端を発し、それまで長らく定説化されてきた「初潮」説を擁護する前田愛が佐多の説に異を唱える形で始まって以降、両説それぞれへの賛否をめぐって様々な作家や研究者による論議が盛んに行われ[1][2][3][4][6][5]、「検査場」説など新たな解釈が提起されるなどの流れを含みながら[2][4][6][5]2000年代まで続いていった研究論争である[5]

この論争以後は「初潮」・「初店」の両説併記が一般的になった[5]。両説の論議の応酬が交わされたことにより、明治期の遊廓の実態を改めて見つめる機会が生れ、『たけくらべ』の抒情的な物語の裏面を考察するという副次的な意義をもたらした論争でもある[7]

※以下、『たけくらべ』原作内からの文言・文章の引用は〈 〉にしています(現代語訳者の訳語、論評者の論文からの引用部との区別のため)。

樋口一葉の『たけくらべ』

作品概説

明治期の女流作家・樋口一葉は、生活苦のため1893年(明治26年)7月に吉原遊郭近くの通称「大音寺前」と呼ばれる下谷龍泉寺町(現・台東区竜泉)の長屋に引越し、翌8月からその地で荒物駄菓子を売る雑貨屋を開いて約10か月間そこで暮した[8][9]。一葉はその雑貨屋の店主として下町の人々や子どもと交流した体験や見聞を題材に1894年(明治27年)の秋から暮にかけて執筆していた未定稿の「雛鶏」(ひなどり)に大幅加筆を施して改稿し、『伊勢物語第23段に因む「たけくらべ」という題に改めた上で[注釈 1]、その作品を翌1895年(明治28年)1月から1896年(明治29年)1月にかけて文芸雑誌『文學界』に断続的に7回連載した[10][11][12]

連載終了から3か月後、若干の補正を加え、通俗雑誌『文芸倶楽部』4月号(第2巻第5編)に一括再掲載された『たけくらべ』(全十六章)は、当時の文壇内の作品批評の最高権威であった、森鷗外主宰の雑誌『めざまし草』の森鷗外・幸田露伴斎藤緑雨による匿名合評「三人冗語」の場において、鷗外から「われは縦令たとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり[13]」と激賞されるなど、彼らから最大級の讃辞の言葉を与えられ、そのことにより樋口一葉の文名は世に広く知られるようになった[14][10][11][15][16][注釈 2]

『たけくらべ』には、吉原遊郭の人気華魁を姉に持つ「美登利」(みどり)という大黒屋の寮に住むおきゃんで気っぷのよい女王的な14歳の少女と、龍華寺僧侶の息子で勉強の出来る内気な15歳の「信如」(しんにょ、訓読みでは、のぶゆき)を軸に、頭の息子で横町組を自認する16歳の乱暴者で餓鬼大将の「長吉」(ちょうきち)、長吉が敵視する表町組の金貸し田中屋の孫息子で人好きのする愛らしい13歳の「正太郎」(しょうたろう)、本来は横町組で大家の鳶頭に頭が上がらない貧乏な人力車夫の息子だが滑稽な三枚目の容姿で表町組にも行き来するひょうきん者の16歳の「三五郎」(さんごろう)などが登場し[10][19][12]、吉原遊郭の裏手の町「大音寺前」(だいおんじまえ)で、吉原が生み出す金の流れに寄生して生きるしかない町人の子供たちの思春期前の活き活きとした喧騒と淡い恋心が、千束神社の夏祭りから大鳥神社の三の酉の市までの季節の移り変わりを背景にして詩情豊かに韻文を駆使しながら描かれている作品である[10][11][19]

一葉の代表作となった『たけくらべ』は当時としても一歩抜きん出ていた作品であったが、後世においても、明治時代に生まれた日本文学の不朽の名作としてその価値を位置づけられており[10][11]、やがて大人社会の浮世の苛酷な現実に直面し、そこに繰り込まれざるをえない、それぞれの宿命を目前にした少年少女たちの子供時代との訣別の哀切さや、子どもの時間への哀愁が主題となっている小説である[10][11][19][20][21]

美登利が変貌する問題の章

ヒロインである紀州生れの14歳の美登利は、当初はよそ者として田舎者ぶりを笑われたこともあったが、遊廓を取り仕切る大黒屋の楼主から与えられる豊富な小遣いと、お転婆で気っぷのよい性格でゴム毬などを皆に大盤振舞して遊びを活気づけたため、子供たちの間で女王様(にょおうさま)的な存在になるが、「五」章で長吉から〈女郎め〉〈姉の跡継ぎの乞食め〉と罵られて泥草履を投げつけられて以来、学校に行かなくなり、遊び場の筆屋の店に集まる仲の良い小さい子どもや、姉弟のように親しい正太(正太郎)や、おどけ者の三ちゃん(三五郎)とだけ遊び暮すようになる[10][22][23]。その後「十二」「十三」章で、つれない態度の信如との淡い恋の無言劇の心理描写が描かれた後の「十四」章では三の酉の市の日の場面となり、それまで明るい性格だった美登利の様子に変化がみられ、その後は仲の良かった正太郎とも遊ばなくなる[10][22][23]。それが論争の焦点となっている以下の三の酉の市の日を境にした「十四」「十五」「十六」の章である[24][1]

「十四」
吉原遊郭の非常門も開いて、人々が自由に往来し賑わいを見せている大鳥神社の三の酉の市の日、正太は筆屋に来ない美登利を朝から探し、団子屋から「今さっき俺の家の前を通って揚屋町の刎橋から入って行った」と聞く。美登利は髪をきれいな大島田に結っていたという。正太が人混みに入っていき廓の角から出てきたところ、番頭新造のお妻[注釈 3]と話しながら歩いている美登利が見えた。大島田の髪に鼈甲の櫛や総つきの花を飾った京人形のような美しい晴れ姿の美登利に見惚れている正太を発見した美登利は、正太に駆け寄っていき、お妻と別れて正太と歩き始める。無邪気な正太は、「よく似合うね」「いつ結ったの今朝かえ昨日かえ何故早く見せてくれなかった」と甘えるが、美登利は「姉さんの部屋で今朝結ってもらったの、私は厭でしようがない」とうつむいて往来の人目を恥じる。
「十五」
美登利には、〈憂く恥かしく、つゝましき事〉(つらく恥ずかしく、気おくれすること)が身にあったため、人の褒める声も嘲りに聞え、島田の髪の好ましさに振り返って見る人々の目も、自分を蔑むもののように見えて、私は家に帰るよと正太に告げる。酉の市に一緒に行こうと約束していた正太は「何故今日は遊ばないの、何か小言を言われたのか? 大巻さん(姉さん)と喧嘩でもしたのか?」と子供らしく問うが、美登利は顔を赤らめるばかりである。団子屋の前を過ぎると、店から頓馬が2人の仲を冷やかし、美登利は一緒に来てはいやだよと正太より先に足を早める。
美登利の異変に気が気でない正太が美登利の家の中まで上がっていくと、美登利の母親が「おお正太さんよく来てくださった」と歓迎し、今朝から美登利の機嫌が悪くて困っているから遊んでやってください、と言う。正太が理由を訊ねると、母親は怪しい笑顔で「少したてば直るでしょう、いつも決まりのわがままさん、さぞお友達とも喧嘩しましょうな、ほんにやり切れぬ機嫌ではある」と美登利の方を振り返るが、いつのまにか美登利は小座敷に蒲団と掻巻を出して帯と上着を脱ぎ捨ててうつ伏している。
正太は美登利の側に寄り、病気なのか気分がすぐれないのか心配するが、美登利は何も答えずにただ忍び泣きするばかりで、困った正太は何も美登利を怒らせることはしていないのに「何がそんなに腹が立つの?」と美登利の顔を覗き込む。美登利は涙を拭って、正太さん私は怒っているのではありませんと答えた。
美登利の胸中は、どうしても話せない気後れのすることで、昨日の美登利の身には覚えのなかった思いが生れ、ものの恥ずかしさは言い尽くせず、ずっと1人にしてほしく、「いつまでもずっと人形と紙雛様あねさまを相手にしてままごと遊びばかりしていられたら、さぞ嬉しいことだろう」「ああ大人に成るのは厭なこと、何故このように年を取る」と1年前くらいに返りたいと考える。そして、ただただ「帰っておくれ正太さん」「話かけられると頭痛がする」と言い、正太の目に涙が浮んでいるのも気遣えず、「いつまでもここにいるのならもう友達ではない」と追っ払ってしまう。諦めた正太は、風呂場で湯加減をみている母親に挨拶もしないまま、庭先から駆け出していった。
「十六」
三五郎は、正太の機嫌がいつになく悪く、自分に対する口調も荒っぽいので、喧嘩でもしたのかと思ったが、そうではないと正太は答える。三五郎は、長吉の「片腕」の信如が近々町を出て僧侶の学校に行くことを正太に教えるが、そんなことよりも美登利の異変が気になる正太だった。
酉の市の日を境に、美登利は生れ変わったようなおとなしい様子で、たまに用事のある時には遊郭の姉のところには通うことはあるが、以前のように皆と活発に町で遊ぶことはなくなり、大の仲良しだった正太とさえ親しくせずに、いつも恥ずかしげに顔を赤らめている。周囲の人々は病気かと心配するが、母親だけは微笑んで「今にまたおきゃんの本性が現れまする、これは中休み」と訳ありげに言うだけである。何のことか分からない人は見当もつかず、女らしくなったと褒めたり、せっかくの面白い子を台無しにしたとそしる者もあったりする。静かになってしまった表町は火か消えたように淋しくなり、正太の美声もあまり聞かれなくなって、ときおりお供の三五郎のおどけ声が聞えてくるだけになった。
信如の噂を全く耳にしていなかった美登利は、信如に対するかつての意地をそのまま封じ込め、ここ最近の訝しいさまに自分が自分でないようで何事も恥ずかしいばかりだった。だが霜の降りたある朝、格子門の外から水仙の造花を差し入れる者があり、美登利はなぜかなつかしい思いがして、さびしく清らかなその花を眺めていたが、それが差し入れられた次の日は、まさに信如が僧侶の学校に行った日だったと伝え聞いた。

定説化していた「初潮」説の流れ

美登利の変貌の原因を「初潮」と解するきっかけとなっていたものは、最初に『たけくらべ』を評した「三人冗語」内で文豪の幸田露伴が、「美登利が島田髷に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日赤飯のふるまひもありしなるべし」と、「赤飯」の文言を出したことの影響が大きいとされる[24][3][5]

美登利が島田髷に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日赤飯のふるまひもありしなるべし。風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし。読みてこゝに至れば、第三章の両親ありながら大目に見て云々の数句、第五章の長吉の罵りし語、第七章の我が姉さま三年の馴染に銀の川同様以下云々の悲しむべき十数句、学校へ通はずなりしまであなどられしを恨みしこと、第八章のかゝる中にて朝夕を過ごせば以下の叙事の文など、一時に我等が胸に簇り起りて、可憐の美登利が行末や如何なるべき、既に此事あり、やがて彼運も来りやせんと思ふにそゞろあはれを覚え、読み終りて言ふべからざる感に撲たれぬ。
幸田露伴「三人冗語」[13]

また、美登利の変貌の原因を「初潮」と解説した最初の人物は、1926年(大正15年)10月に至文堂から『樋口一葉論』を出版した日本近代文学研究者の湯地孝だったとされる[4][注釈 4]。その後、『女人芸術』の主宰者であった作家の長谷川時雨が、1938年(昭和13年)8月に冨山房百科文庫から刊行された『評釈一葉小説全集』において「初潮」だと述べており[26][27][24]、その後の一葉研究の書でも同様に解説している[5]

この寛濶な、ものおぢしない子が、始めて島田に結つた酉の町のあとで、衣ひきかつぎ人目をいとふ日がある。こゝも、紫の上も、むらさきも、衣ひきかつぎ起出でず、むづかつてゐた日があつて、それは内密にむすばれた伉儷の、初夜のおむづかりであつて、傍の者に解せなかつたのだが、美登利の母親は、ことがわかつてゐるので、なに直に日頃いつものおはねになるだらうと言つて笑つてゐる。美登利には初潮が来て、女になつた日だつたと解釈してよいと思ふ。
「母親怪しき笑顔をして少し経てば愈りませう」母親の笑顔は、美しく欠点のない娘が、これで、どこも不具でなかつたといふ満足。母親だけが察し、慰め、訓へる、医者のいらない病気――初潮が少女美登利に来たのである。 — 長谷川時雨「評釈――たけくらべ」[26]

そして時雨の解釈を踏襲する形で「初潮」とする解釈が続き、1949年(昭和24年)の藤田福夫、1956年(昭和31年)の吉田精一塩田良平1958年(昭和33年)の和田芳恵1961年(昭和36年)の蒲生芳郎1967年(昭和42年)の村松定孝1970年(昭和45年)の関良一1972年(昭和47年)の青木一男1974年(昭和49年)の松原新一1975年(昭和50年)の前田愛1981年(昭和56年)の藤井公明、1982年(昭和57年)の岡保生1984年(昭和59年)の瀬戸内晴美などが「初潮」を迎えた微妙な心理として解説し、美登利の変化の原因は「初潮」でほぼ定まっていた[24][4][5]

例えば、樋口一葉研究の先達者の一人である作家の和田芳恵は、その日を「生理日」として、「十五」章において自宅の大黒屋の寮に帰った美登利が長襦袢姿になる意味について、正太郎との「距離」を暗示したものだとし、その描写の中にやがて遊女となる美登利の宿命が予示されているとした[28][24]

寮に帰った美登利は、やがて、買う側の正太の前で、長襦袢になる。これは、生理日という女性の病症の自然の結果だが、長襦袢姿は遊女の姿態を暗示しているようだ。(中略)この距離は、遊女になる美登利と、その客にあがる正太が実現する日の近さに外ならない。 — 和田芳恵「『たけくらべ』樋口一葉 十六」[28]

和田は別の論でも「初潮」と解釈し、子供から娘になった美登利の行く手には姉と同じく「身を売る稼業」が待っていたとし、自身に訪れた「生理的な変化」にとまどい、女に生れた「うっとうしさ」を仲良しの正太郎に当たり散らしたと解説した[29][27]

美登利に初経があって、子供から娘になった行く手に、姉大巻のような身を売る稼業が待っていた。(中略)この土地に育った美登利は、娼妓を特別なものと考えることができない。美登利は生理的な変化にとまどい、女にうまれた、うっとうしさに仲良しの正太郎へあたりちらしたりする。 — 和田芳恵「ひとすじの心」[29]

同じく一葉研究者で日本近世・近代文学研究者の前田愛は、『たけくらべ』を論じる上で、特に美登利の2回目の「受難の日」として「初潮」の意味を捉えて重視し、やがては遊女になる前の「子どもの時間」の終りを示しているとした[20][注釈 5]

美登利の初潮は吉原のマツリの日におとずれる。美登利の受難の日として二つのハレの日が選ばれる設定には、たんなる思いつきをこえた一葉の深い用意がこめられているだろう。美登利が迎えた初潮は、まぎれもなく大島大明神にささげられたいけにえの証しであり、吉原の悪場所におくりこまれる美登利に負わされた性と金銭の穢れや罪障のしるしなのだ。
酉の市の賑いをよそに、〈薄暗き部屋〉に臥せている美登利は、かつて自分の体内に生きていたひとりの少女が確実に死んだことを自覚する。遊びに再生するためには、遊ぶ子どもはいったんは死ななければならないのだ。
美登利にゆるされていた子どもの時間が閉ざされてしまったとき、大音寺前の子どもたちの時間も終りを告げる。 — 前田愛「子どもたちの時間――『たけくらべ』試論」[20]

作家の瀬戸内晴美は、「『たけくらべ』は日本の文学で女の初潮、メンスを正面から取り上げて書いたただ一つの文学」だとして、当時としては「画期的なこと」だったのではないかと解釈した[30][24]

いまわれわれは生理の話など平気でしますけれども、私の子供のころはそれは男の前では絶対に言ってはいけないことでした。女学校で、毎月神社参りがあるんですが、そのときには生理の人は鳥居をくぐっちゃいけないんですね。拝んじゃいけないというんで、鳥居さんの外にズラーッと並ぶんです。けがれてるというんですね。それが昭和の話でしょう。明治のあの時代に一葉がそういうことを書くということは、しかも女が書くということは、大変画期的なことだったんじゃないかと思うんですね。だからそういう意味では、一葉は女の生理について非常にはっきりした考えを持っていたと思うんです。(中略)
初潮のところで、私はそれは外国にもないうまい表現だと思ったのは、初潮の翌日、非常におとなしくなるとかね、非常にすんなり書いてございましょう。原文読めばわかりますけど。 — 瀬戸内晴美「『たけくらべ』と樋口一葉」[30]

その瀬戸内との対談でも前田愛は、美登利が迎えた「受難」であった「初潮」は単なる生理の問題だけではなくて、「もっと普遍的な問題」につながるように書かれているところに「凄味」があるとして、作品の主題の意味に触れた[30]

初潮の問題は『たけくらべ』に出てくる二つのマツリにからんでくる。千束神社の夏祭りと十一月の酉の市です。千束神社の夏祭りのときに美登利は横組町の餓鬼大将の長吉に泥草履を投げつけられて、〈何を女郎の頬桁たゝく、姉の跡つぎの乞食め〉とののしられる。これが一つの受難ですけれども、酉の市の祭りのときに初潮という受難を迎えて、それをきっかけに少女から大人の世界へと境界をこえて行く。この時間的な通過儀礼が同時に大音寺前から吉原の廓の中に入るという空間的な移動と見事に重なっている。初潮の問題を生理の問題として書いているだけではなくて、それがもっと普遍的な問題につながるような書き方をしているところに、『たけくらべ』の凄味があります。 — 前田愛「『たけくらべ』と樋口一葉」[30][注釈 6]

注釈

  1. ^ 伊勢物語第23段の以下の二首の和歌から「たけ」「くらべ」の語を取って「たけくらべ」となった[10]
    「つゝゐつゝ ゐつつにかけし まろがたけ すぎにけらしな いもみざるまに」
    くらべこし ふり分髪も かたすぎぬ きみならずして たれかあぐべき」
  2. ^ 「三人冗語」の森鷗外幸田露伴の評は以下のようなものである[13]
    ひいき(幸田露伴):此作者の作にいつもおろかなるは無けれど、取り分け此作は筆も美しく趣きも深く、少しは源の知れたる句、弊ある書きざまなども見えざるにはあらぬものゝ、全体の妙は我等が眼を眩まし心を酔はしめ、応接にだも暇あらしめざるほどなれば、もとよりいさゝかの瑕疵などを挙げんとも思はしめず。(中略)
    美登利が島田髷に初めて結へる時より、正太とも親しくせざるに至る第十四、十五、十六章は言外の妙あり。其の月其の日赤飯のふるまひもありしなるべし。風呂場に加減見たりし母の意尋ねまほし。読みてこゝに至れば、第三章の両親ありながら大目に見て云々の数句、第五章の長吉の罵りし語、第七章の我が姉さま三年の馴染に銀の川同様以下云々の悲しむべき十数句、学校へ通はずなりしまであなどられしを恨みしこと、第八章のかゝる中にて朝夕を過ごせば以下の叙事の文など、一時に我等が胸に簇り起りて、可憐の美登利が行末や如何なるべき、既に此事あり、やがて彼運も来りやせんと思ふにそゞろあはれを覚え、読み終りて言ふべからざる感に撲たれぬ。鹵莽なる読者ならずば、唯に辞句の美を説くにとゞまらず、必ずや全篇の秘響傍通して伏采潜発する第十四、十五、十六章に至りて、噫と歎じて而して必ずはじめて真に此篇の妙作たることを認むべし。文の癖など人によりては厭ふべき節の別れ路、十三夜等よりは此篇に多きかは知らねど、全体より云へば、此篇却て勝れたること数等なるべし。
    第二のひいき(森鷗外):兎いはん角いはんと思ひ居たりしことも、その言葉こそ同じからね、先づ前席の人の無碍自在なる弁才もて演べ尽されたる心地すれば、われ口を杜いでも止むべきかなれど、さてはまた余りに残惜しかるべし。大寺前とはそもそもいかなる処なるぞ。いふまでもなく売色を業とするものの余を享くるを辱とせざる人の群り住める俗の俗なる境なり。されば縦令よび声ばかりにもせよ、自然派横行すと聞ゆる今の文壇の作家の一人として、この作者がその物語の世界をこゝに択みたるも別段不思議なることなからむ。唯々不思議なるは、この境に出没する人物のゾライプゼン等の写し慣れ、所謂自然派の極力模倣する、人の形したる畜類ならで、吾人と共に笑ひ共に哭すべきまことの人間なることなり。われは作者が捕へ来りたる原材とその現じ出したる詩趣とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われは縦令世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり。且個人的特色ある人物を写すは、或る類型の人物を写すより難く、或る境遇のMilieu に於ける個人を写すは、ひとり立ちて特色ある個人を写すより遙に難し。たけ競出でゝ復た大音寺前なしともいふべきまで、彼地の「ロカアル、コロリツト」を描写して何の窮迫せる筆痕をも止めざるこの作者は、まことに獲易からざる才女なるかな。 — 「三人冗語」[13]
    なお、樋口一葉はこの高評について自身の日記の中で、〈その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか〉といった不満も漏らしていた[17][14][18]
    我れをたゞ女子と斗見るよりのすさび、されば其評のとり所なきこと疵あれども見えず、よき所ありともいひ顕すことなく、たゞ一葉はうまし、上手なり、余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり、たゞうまし、上手なりと、いふ斗その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか、いとあやしき事ども也。 — 樋口一葉「水の上日記」[17]
  3. ^ 「番頭新造」とは、最高級の遊女や部屋持ちの遊女について、客や茶屋と遊女屋との間の全てのことを取り仕切る役目の者で、多くは廓離れした年増が多かった[25]
  4. ^ a b この点について小谷野敦は、湯地孝は「初潮」説を特に書いていないとしている[5]
  5. ^ 前田愛は、『たけくらべ』の結末を、「ロマン主義文学における子どもの役割を先取りしていた」と見ることも可能だとして、ワーズワースの影響が看取される国木田独歩の詩篇「門辺の子供」と相通ずるものがあると解説した[20]
  6. ^ 他の著書内においても前田愛は、酉の市の日は美登利の「第二の受難の日」だとして以下のようにまとめている。
    夏祭の宵には表町組、横町組の旗じるしをかかげて互いに元気をきそいあった大音寺前の子ども集団は、酉の市の夜には結束を解いて分散し、人出をあてこんだ小遣いかせぎの俄か商いに精出すことになる。しかも、このハレの日は美登利にとって第二の受難の日であって、初潮を見た美登利は大鳥大明神にささげられたいけにえとして、吉原の悪場所に送りこまれて行く。信如もまた造花の水仙を美登利への記念かたみにのこして、大音寺前から旅立つ人になるだろう。大音寺前の侘しい街並を賑わせていた子どもたちのアソビの世界を跡かたもなくつきくずしてしまった見えない力――それは周辺部の農村地帯を貪欲に蚕食することで拡大しつづけた近代東京の苛責ないエネルギーなのである。 — 前田愛「一葉の文学風土――3〔地縁の論理〕」[31][12]
  7. ^ 佐多稲子は以前から「初店」だと思っていたとして、自身が担当した1953年(昭和28年)刊行の『樋口一葉集』(河出市民文庫)以外の、もう一つの文庫の解説の方では「初店」説に基づいて解説したと述べた[27][24][1][4]。前田愛と松坂俊夫はその佐多の言うもう一つの解説本について未見と断った上で、創芸社から刊行の近代文庫版『にごりえ・たけくらべ 他四篇』ではないかと推察し[24][1][4]、創芸社の近代文庫版のタイトルは正確には『にごりえ・たけくらべ 樋口一葉集』(1953年6月刊)であることを山根賢吉が指摘するが[32][4]、その本での佐多の解説は、河出市民文庫の解説と似たもので以下のような文面である[4]
    「たけくらべ」における子どもの生活も、大人を支配する環境におき、その性格もまたそこにとらへられてをり、愛情さへそれに支配されたものとして描かれてゐる。栄耀が金に屈してはじめて可能となる庶民生活では、美登利の悲劇はその母親にとつて悲劇には感じられない。 — 佐多稲子「解説」(創芸社近代文庫『にごりえ・たけくらべ 樋口一葉集』)
  8. ^ この「高価な『初店』」説を掲載するにあたって佐多稲子は控え帳に、「初潮があったから『水揚げ』ということも聞いたことなし これも関係ないと見てよし むしろ男はそんなことのない少女に高価なものを見ていたかもしれぬ」というメモ書きを残していたという[34]
  9. ^ 「厄介節」は、「わたしや父さん母さんに、十六七になるまでも、蝶よ花よと育てられ、それが曲輪に身を売られ、月に三度の御規則で、検査なされる其時は、八千八声のほととぎす、血を吐くよりもまだ辛い、今では勤めも馴れまして、金あるお方に使はする、手管手れんの数々は、恥かしながら床の中……」という歌詞で、明治時代に流行した[39][20]
  10. ^ 前田愛は、学者の立場から「十五」章におけるテクストの「空白」を重視し、美登利が思い悩むのは、橋をわたって廓に入って再び出てきた後で、その間の時間帯に何があったのかは小説テクスト内では書かれておらず、美登利の変化については「初潮」という解釈が通説だったが、佐多が処女喪失だと異論を唱えたことは、そこの空白が読者の「想像力」をかきたてることの証であって、佐多の説もあくまでも一つの「推定」「想定」だとその後の著書『文学テクスト入門』でも述べた[33][38]
  11. ^ 小谷野敦はこの点について、前田本人が自説として、美登利が「初潮」を迎えての「成女式」の式場で今後の「初店」のことを知らされたという代案的な説を提示したことを、当時80歳以上の年齢だった佐多が誤読したとしている[5]
  12. ^ 小谷野敦は、この「太田一夫」は瀧川政次郎ではないかと推察している[5]
  13. ^ 太田一夫の「水揚げ」説を紹介した短歌雑誌『明日香路』の編集者の岩波香代子は、女性から見れば美登利がふさぎこむ原因は従来の「初潮」説でも分かるが、太田の説は思いがけない解釈だと思われるため掲載したと同号の「編輯だより」で記している[1]
  14. ^ 薮禎子は、この時期に「樋口一葉の世界」の特集を組んだ『国文学 解釈と鑑賞』に寄稿した面々(山田有策を含め)が、佐多と前田の論争を「素通り」した姿勢を「風馬牛の趣で通り去ってしまったのは寂しい」として、「研究の名において積極的に反応してみせる気概が出て然るべきではなかったろうか」と苦言を呈しつつ、「国文学ジャーナリズムの中で、所与の形でしか書けなくなった研究者たちの、自己充足的な安穏がいささかわびしいものに思われる」と述べた[2][5]
  15. ^ 小谷野敦は、吉田裕は特に「初潮」説を書いていないとしている[5]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba 松坂俊夫「『たけくらべ』解釈論議考――その経過と考察」(山形女子短期大学紀要 第19集・1987年3月〈実際の刊行は7月〉)。松坂 1996, pp. 135–164に所収
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 薮禎子「『たけくらべ』論争」(日本近代文学 第36集・1987年5月)。藪 1991, pp. 342–351に所収。小谷野 2010, p. 192に抜粋掲載
  3. ^ a b c d e f g h i j k 関礼子「たけくらべ〈樋口一葉〉」(研究必携1 1988, pp. 82–90)
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