Tu-4との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 02:53 UTC 版)
「B-29 (航空機)」の記事における「Tu-4との関係」の解説
詳細は「Tu-4 (航空機)」を参照 スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月31日の「ランプトランプ (Ramp Tramp / 42-6256)」、8月20日の「ケイトポーマット (Cait Paomat / 42-93829)」、11月11日の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル (General H.H. Arnold Special / 42-6365)」、及び11月21日の「ディングハウ (Ding Hao / 42-6358)」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命令によりモスクワで解体調査された。ランプトランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1947年春に完成して、同年5月19日に初飛行にこぎつけた。開発時は「B-4」と呼ばれていたが、1949年に量産が開始されるとツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)と名付けられた。 Tu-4のエンジンはソビエト製のシュベツォフ ASh-73が搭載されたが、エンジンの出力はB-29搭載のライト R-3350に劣るものではなく、最高速度558km、巡航速度435kmの高速飛行が可能であった。搭載の機関砲についてはB-29の12.7mm機関砲に対してNS-23機関砲(口径23mm)を搭載しており、B-29より打撃力は高かった。 1947年8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばには戦略爆撃機として本格的に運用された。一部の機体には空中給油設備や翼下に追加の燃料タンクが設置されて、アメリカ本土爆撃ができるよう航続距離の延伸がはかられ、核爆弾が搭載できるように改修された。Tu-4Aはソ連初の核爆弾RDS-1の投下用に開発された最初の航空機であった。ソ連初の無人航空機(無人標的機)であるLa-17(英語版)を翼下に懸吊したTu-4NMやKS-1 コメット空対地ミサイル(英語版)の発射母機であるTu-4Kも開発され、のちにKS-1コメット空対地ミサイルから、12キロトンの核弾頭を搭載したFKR-1ミサイルが開発された。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。 1952年までに847機ないし1,300機が製造されたが、1954年にはより先進的なTu-16に置き換えられた。爆撃任務を外れたTu-4のうち300機は空挺部隊用の輸送機に改修され、空挺部隊のパラシュート降下や物資投下に使用された。また1部の機体は練習機や実験機として利用された。ツポレフはTu-4を基礎にして旅客機Tu-70も開発したが、量産はされなかった。 1953年にスターリンはTu-4を中華人民共和国にも供与し、1956年3月29日にカム反乱でチベット人住民や僧侶が籠城するリタンの寺院への爆撃で2機のTu-4が初めて投入され、当時住民は飛行機を見たことがなかったために「巨大な鳥」が接近しているように見えたという。1機はKJ-1として早期警戒機にされて1980年代まで中国人民解放軍で運用された。
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