MM砲、そして引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 20:48 UTC 版)
「ミッキー・マントル」の記事における「MM砲、そして引退」の解説
1960年は3年連続リーグワーストの125三振ながら、いずれもリーグトップの40本塁打・119得点・294塁打・OPS.957の成績で4度目の本塁打王を獲得し、チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たす。ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでは打率.400・3本塁打・11打点の活躍を見せたが、最終第7戦でビル・マゼロスキーにサヨナラ本塁打を浴びて敗退した。同年カンザスシティ・アスレティックスから移籍して打点王を獲得したロジャー・マリスとのコンビがMM砲と呼ばれるようになる。エクスパンションにより10球団に増えた1961年は両者共に開幕から本塁打を量産し、ベーブ・ルースが持つシーズン60本塁打を更新するかが注目を集めた。結局61本塁打を放ったマリスが記録を更新したが、マントルもキャリアハイの54本塁打を記録した。同一チームの2選手合計の本塁打115は2018年現在まで破られていない。MVPの投票ではマリスと僅か4ポイント差の2位で受賞を逃した。 1962年は途中1ヶ月の離脱もあって123試合の出場に留まるが、リーグトップの122四球・出塁率.486・長打率.605・OPS1.091の成績でチームはリーグ3連覇を果たすが、ジャイアンツとのワールドシリーズでは打率.120・本塁打なしの不振。それでも4勝3敗でシリーズ連覇を達成した。1963年6月5日のオリオールズ戦でフェンスに衝突して左足を骨折し、2ヶ月の戦線離脱。65試合の出場に留まるなど不本意なシーズンとなったが、チームはリーグ4連覇。ドジャースとのワールドシリーズでは、第4戦でサンディ・コーファックスから本塁打を放つが打率.133に終わり、チームはコーファックス、ドン・ドライスデールの2枚看板に抑え込まれて4連敗で敗退。この頃になると、かつてワールドシリーズを4連覇(1936年 - 1939年)、5連覇(1948年 - 1952年)した時期に比べて、絶対的な強さはヤンキースから消えていた。それは入団当初は輝かしい存在であったミッキー・マントルがケガに悩まされて、次第に彼の肉体を蝕んでいく時期と符合を合すかのように進んでいった。 続く1964年はワールドシリーズにおいてセントルイス・カージナルスと対戦し、第3戦、第6戦、第7戦でマントルは最後となったシリーズ本塁打を打ったが、打者ではルー・ブロック、ケン・ボイヤー、カート・フラッドを、投手ではボブ・ギブソンを擁するカージナルスの攻勢に晒されて、結局3勝4敗で敗れた。これ以後、ヤンキースは長い低迷の時期に入り、マントルはそのようなチーム事情に自身の肉体的な衰えから引退の時期を見誤ることになった。後年、マントルは現役生活をこの1964年限りで止めればよかったと後に語っているが、この年以降、打率が2割3分から2割8分台しかマークできず、通算打率が3割を切った事に非常にコンプレックスを持っていたためだという。 1967年に通算500号本塁打を達成、同年はヤンキースが地区最下位に転落しており、どん底な状況の中での明るい話題ではあった。最後のシーズンとなる1968年は2割3分台と自己最低の打率となり、ついに翌1969年のシーズン前に現役引退を表明した。引退時は満身創痍の身で、まさに現役時代は怪我との戦いではあったが、ヤンキース一筋の野球人生だった。背番号「7」は引退を表明した同1969年にヤンキースの永久欠番に指定されている。
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