K4の生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:57 UTC 版)
「大牟田4人殺害事件」の記事における「K4の生い立ち」の解説
K4は大牟田市立米生中学校在学時以来、「何かをやらかしそうな手を付けられないレベルの不良。ろくに字も読めず、学力は小学校1,2年生レベル」として悪名を轟かせており、授業妨害・居眠り・テストの棄権などを日常茶飯事に行い教師らに反抗することも多かった。中学時代は1歳年下の弟も在学していたことから体育祭には両親K1・K2が組の若衆4,5人とともに「一番いい場所」に陣取っていたが、K4は普段から体育の授業にも出ていなかったため、体育祭にも出ていなかった。 被害者Bが高校1年生の頃に一時不登校になった際、約1カ月間にわたりK2宅に預けられたことがあったが、知人は『読売新聞』の取材に「BはK4と年齢が近かったので、この時期に親しくなったのだろう」と証言した。しかし被害者Bの友人は『週刊文春』(文藝春秋社)の取材に対し「BとK4は「親しい間柄」とはとても言えず、実際はBが不良グループの下っ端としてK3・K4兄弟の使い走りにされていただけで、BはK3・K4からいじめを受けて泣くこともあった」と証言した。 後述のように一時は大相撲に挑戦したが、1年半で引退して17歳で地元・大牟田市に戻った。 大牟田に帰郷してからは17歳で実家に帰り母K2の建設会社で建設作業員として働いたが、首・腰を痛めたことや、17歳になったためにオートバイの運転免許を取得しようと仕事を辞めた。 その後、被害者Bらとともに暴走族「族・神鬼狼」を結成し、ともに愚連隊のように過ごしていた。近隣住民からは「暴力団とのつながりが深く暴走族・不良少年グループのリーダー格」と映っていたK4は、仲間たちを率いて暴走行為・窃盗・薬物乱用・輪姦などの犯罪行為を繰り返しており、被害者B・Dと親しいグループにいた少女が事件の約1年前K3・K4兄弟周辺のグループに輪姦された事件がきっかけで、B・C・D各被害者の近しいグループとは対立関係になっていた。 しかし、「いつまでたっても地に足がつかない」状態だったために本人曰く「気持ちを切り替えようと」、父K1の北村組に入ることにし、組の準構成員となった。しかしその後も「わがままな性格・遊び癖が抜けずに中途半端な状態」だったため、堪忍袋の緒が切れた父K1から他組織の幹部(K1の兄弟分の暴力団組長)に部屋住みとして預けられた。 部屋住みになってから約1年後には母体の北村組に戻り、2002年(平成14年)ごろには18歳の若さで北村組及び上部組織の本部当直、総長宅の本家当直を務めるようになった。その当時は、愚連隊時代に始めていた女子中高生の売春チームとともに、組織内では「ご法度」とされていた覚醒剤など違法薬物全般の密売買を取り扱うシノギを父K1には内緒でしており、それ以外にも表向きのシノギとして賭博・中古車販売・違法売買などをしてはいたが、「ご法度」とされていた薬物売買の方が儲かったという。 しかしこの頃、「初めて心から惚れて愛した女性」ができたことから一時は暴力団から足を洗い、その女性と真面目で一般的な暮らしをしようとしていたが、関係者のところから福岡県警の家宅捜索で覚醒剤・大麻が見つかったため、「ジギリ出頭」として身代わりになることになった。 その直前には「出頭前に一暴れしてやろう」と不良仲間らとともに一夜のうちに大牟田市近辺の交番など49軒を襲撃し、自転車の通行人をひき逃げするなどの犯罪行為を繰り返した。結果、18歳から19歳になる直前、即ち2003年(平成15年)春ごろに相次いで逮捕され、大牟田警察署・柳川警察署の留置場への勾留、少年鑑別所への2度の収容を経て、事件4カ月前の2004年5月6日に出所するまでの約1年半にわたり大分少年院(大分県豊後大野市)に送致されていた。この逮捕後に交際相手の女性と別れて以来、少年鑑別所では窓ガラスを叩き割ったり職員をガラスの破片で切りつけるなど、手の付けられないほどの暴力行為が目立ったため常に単独室で処遇されていた。 少年院を出院後、年下の若い女性と交際するようになったK4は先に刑務所を出所した兄K3の家で共に暮らしていることが多く、事件前まで「シノギ3:遊び7」の生活を送っていた。
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