HRからHMへ(1974年 - 1980年)
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「ジューダス・プリースト」の記事における「HRからHMへ(1974年 - 1980年)」の解説
1974年、イギリスのマイナーレーベル「ガル・レコード」と契約。しかし契約内容はバンド側に不利な内容であり、バンドが受け取るギャラは一ヶ月にわずか50ポンドであったため、メンバーはアルバイトをしたり、生活保護を受けるなど、経済的に困窮していた。 4月、レーベル側の提案でもう一人メンバーを加えることを決定。キーボーディストやホーン奏者を迎えるアイディアもあったが、結局もう一人ギタリストを加えることに決定。元「FLYING HAT BAND」のグレン・ティプトン(G)が加入。K・K・ダウニングと共にツインリードギターとなった。 9月、ファースト・アルバム『ロッカ・ローラ』でデビュー。プロデューサーは、ブラック・サバスやバッジーとの仕事で知られるロジャー・ベイン。アルバム発表後、レコード会社の支援なしでツアーを開始。地道な活動が功を奏してツアーは長期的なものとなった。 1975年 8月、「ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル」に出演。スタジオアルバムには未発表の曲「Mother Sun」を演奏した。フェスティバル後、ジョン・ヒンチ(Ds)が脱退。後任にアラン・ムーア(Ds)が復帰。 1976年3月、2ndアルバム『運命の翼』を発表。このアルバムではグレン・ティプトン(G)が本格的に曲作りに参加した上、レコーディング・エンジニアの一人に後の『ペインキラー』(1990年)のプロデューサー、クリス・タンガリーディスが参加している。 アルバム発表後ツアーを開始。ツアー自体はとても好評であったが、「ガル・レコード」との契約によって相変わらずバンドの財政は苦しく、メンバーは機材車で寝泊りする状況だった。そしてついに金に困ったアラン・ムーア(Ds)が脱退。 同年12月、新たにメジャーレーベル「CBSレコード」と契約。メンバーはドラマー不在のまま曲作りを始める。空き家となっていた修道院を借りてリハーサルを行った。 1977年1月にレコーディングを開始。「CBSレコード」側が「ヒット作のカヴァー」を収録するよう要請され、アメリカのフォーク・ミュージシャン、ジョーン・バエズの「Diamonds and Rust」をカヴァー。4月、メジャー・デビュー作となる3rdアルバム『背信の門』を発表。ディープ・パープル(当時は解散している)のロジャー・グローヴァーがプロデュース、サイモン・フィリップス(Ds)が録音に参加。 当初はツアーにサイモン・フィリップス(Ds)を参加させる予定であったが、彼は他のプロジェクトで忙しく断念。バンドはオーディションを行い、元ANIMALSのレス・ビンクスを加入させる。5月にイギリスツアー、6月には初めてアメリカツアーに他のバンドの前座として臨んだ。オークランド・コロシアムでのフェスティバル「DAY ON THE GREEN」では、大トリのレッド・ツェッペリンの前座を務めた。 1978年2月、4thアルバム『ステンド・クラス』を発表。プロデューサーにデニス・マッケイを起用したが、シングル向けにスプーキー・トゥースのカヴァー、「ベター・バイ・ユー、ベター・ザン・ミー」を追加録音。同曲のみジェイムス・ガスリーがプロデュースしており、ジェイムスの仕事ぶりを気に入ったバンドは次作でも彼を起用している。またこのアルバムからバンドのロゴが現在に近いものに変更されている。 アルバム発表後イギリスツアーを開始。2月にロンドンのハマースミス・アポロで公演。3月にはガル・レコードが初期の2枚(ロッカ・ローラと運命の翼)から選曲したベストアルバムを発表した。 7月、初来日。東京、名古屋、大阪で公演。日程は25日:東京・中野サンプラザ、29日:東京・芝郵便貯金ホール、31日:東京・新宿厚生年金会館(昼夜2回公演)、8月3日:名古屋・名古屋市公会堂(オープニングアクトは野獣)、5日:大阪・フェスティバルホール。来日ツアーの後、イギリスに戻り新作の製作を開始。 10月、5thアルバム『殺人機械』発表。アメリカでは1979年2月に発表され、タイトルも『Hell Bent for Leather』と変更された。アメリカ盤にはフリートウッド・マックのカヴァー「グリーン・マナリシ」が追加収録されている。アルバム発表後イギリスツアー開始。このツアーからバンドのステージ衣装としてレザー&スタッドを着用するようになり、ロブ・ハルフォードはハーレーダビッドソンを乗り回すパフォーマンスを始める。重厚で引き締まったサウンドによる音楽性と、ツアーにおけるステージ演出に至るまで今日のヘヴィ・メタルのスタイルがある程度確立されたといえる。 1979年、シングルカットされた「テイク・オン・ザ・ワールド」が全英で最高14位を記録。さらに2弾目のシングル「イヴニング・スター」は全英53位と大健闘。瞬く間に注目のバンドとなり、BBCの人気音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に2回出演した。 2月、2度目の来日。日本側の提案でライブ・アルバムの録音が決定。10月にライブ・アルバム『イン・ジ・イースト』として発表され、後に海外でも9月に「UNLEASHED IN EAST」として発表された。日程は9・10日:東京・新宿厚生年金会館(10日は昼夜2回公演)、13・14日:大阪・フェスティバルホール、15日:東京・中野サンプラザホール。ただし、ロブ・ハルフォード(Vo)は滞在先のホテルの空調が原因で喉を痛め、ボーカル・パートは後に録り直している。 来日ツアーが終了後、5月までアメリカツアー、その後イギリスツアーを行った。 9月、レス・ビンクス(Ds)が脱退。後任に元トラピーズのデイヴ・ホーランド(Ds)が加入。KISSの前座としてアメリカツアーを行い、11月にはAC/DCの前座としてヨーロッパツアーを行った。 12月、ビートルズのリンゴ・スター所有のスタジオにて新作アルバムのレコーディングを開始している。
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