DWCによる世界一周
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「初の航空機による世界一周」の記事における「DWCによる世界一周」の解説
4機(シアトル・シカゴ・ボストン・ニューオーリンズ)は1924年4月4日からそれぞれカリフォルニア州のサンタモニカ・サンドポイント(英語版)・ワシントン・シアトル付近を起点に出発した 1924年4月6日、フレデリック・マーチンとアルヴァ・ハービーにより飛行状態にある航空機シアトルはアラスカへ向かう途中、プリンスルパートに到着した時点では、4機の中で速い方だった。 アルヴァ・ハービー(完全に資格を取得した整備士としては4機の飛行士唯一)は修理が必要だとして残留している。修理が終わり、他の3機に追いつこうとするも、4月30日に激しい濃霧によりアラスカ半島のポート・モラー空港(英語版)付近の山腹に墜落した。5月10日に生存が確認されたが、航空機シアトルは全壊状態にあった。 残る3機の中ではスミス中尉とアーノルド中尉飛行による航空機シカゴが最も早かった。アリューシャン列島を離陸し、北太平洋の諸島上空を飛行していた。 ソ連上空の航空は認められず、避けて飛行する形となっている。日本、韓国、中国の沿岸、香港、フランス領インドシナ、タイ、ミャンマー、インド、そして中東地域とヨーロッパ地域の上空を飛行し、その後も飛行は更に続けられた。 航空機シカゴは飛行中にコネクティングロッドが損傷してしまい、フランス領インドシナ(現ベトナム)のトンキン湾の潟に着水することを余儀なくされた。 航空機は当時のインドシナでは新しいものと考えられているというのもあってか、宣教師・司祭がパイロットに対して食料やワインを提供したり、地域民が機体を見るためにポンツーンによじ登るなどの行動が見られた。ボートによる航空機シカゴの捜索を行った飛行士は船の乗組員が航空機の翼に乗っているところを発見している。 地元船の乗組員と共に3つのパドルで稼動するサンパンで10時間にわたり牽引し、40キロ先の都市フエで修理を行った。 "最速だ - インドシナ初のエンジンの変更としては疑う余地はないものである"。 コルカタで航空機の点検を行っている間、スミス中尉が誤って足を滑らせ、ろっ骨を折る怪我を負う事態が生じた。スミス中尉は初の世界一周を完全に終えると主張している。 パリ祭にあたる7月14日にパリに到着した。大西洋航行に備え、ロンドン・イングランドの北部に向かって飛行した。 1924年8月3日、大西洋飛行中に航空機ボストンが強制着水している。航空機シカゴは海軍の駆逐艦と接触し、事故を起こした機体についてのメモをシカゴの唯一の救命胴衣に括り付けて落とした。乗員を救助した巡洋艦のリッチモンドが曳航している間、航空機ボストンは転覆し沈没した。 ローウェル・スミス中尉とレスリー・アーノルド中尉による航空機シカゴは依然として最も早い航空機であったが、エリック・ネルソン中尉とジャック・ハーディング中尉による航空機ニューオーリンズはアイスランドとグリーンランドを経由しながら大西洋を横断、カナダに到着していた。 ボストンIIと呼ばれている試作機は航空機ボストンの乗組員であるリー・ウェード中尉とヘンリー・オグデンによりピクトウ(英語版)で対面し、合わせて3機がワシントンD.C.に向けて飛行した。 首都で歓迎を受けた後、3機のDWCはアメリカ西海岸に向けて一緒に飛行し、サンタモニカに立ち寄った後、1924年9月28日にシアトルに到着した。 実に175日と4万4342キロの飛行距離であった。ダグラス・エアクラフトは初の世界一周を標語として採用した。アメリカチームは数機の航空機を使用し、世界一周が成功する可能性を高めた。燃料・予備の部品・機体のパーツを事前に用意することで成功の可能性をさらに高めた。事前に決められている中間地点では、世界を飛行する航空機のエンジンは5回、機体の翼は2回の取り付けが行われた。
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