8-12世紀 北西ヨーロッパ
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「ミニアチュール」の記事における「8-12世紀 北西ヨーロッパ」の解説
西ヨーロッパの写本彩飾画派は、写本の装飾のみを目的としていた。メロヴィング朝の時代の写本、北イタリア(ロンバルディア)・フランク王国周辺の画派による写本、スペインの写本、ブリテン諸島のインスラ美術(en:Insular art)による作品、これらのいずれにも人物描写はほとんど見つからず、ミニアチュールは人体の写実よりも装飾の中心としての役割を果たしている。 アングロサクソン画派はカンタベリーとウィンチェスターで特に盛んであったが、彼らはおそらくビザンティン美術の影響をほとんど受けず、ローマ古典を原型にして人物の自由な描写を作り上げたと思われる。10~11世紀、この画派のミニアチュールの最大の特色は、はっきりとした輪郭描写にある。これはこの後数世紀にわたってイギリスのミニアチュールに影響を与えたが、西ヨーロッパのミニアチュール発展の本筋からは外れていた。 カロリング朝の君主らの下では、古典の原型を元にする画派が生まれたが、これは主にビザンティン美術を元にしていた。カール大帝の奨励を起源とする画派において、ミニアチュールは2つの様式に分かれた。ひとつはビザンティン美術の様式に基づくきわめて因習的なミニアチュールで、題材は主に福音伝道者や皇帝といった、決まった人物の肖像であった。紙面は豪華に彩り・縁どりが行われ、通常は自然の風景は用いられず、決まったパターンの構造的な背景が用いられた。この画派に縁取り・飾り文字の装飾が加わり、後の大陸西方の画派の原型となった。一方で、写本挿絵を目的とするミニアチュールもあり、聖書の各シーンなどが題材であった。こちらのミニアチュールにはより自由な描写が認められており、ビザンティン風の因習的なものとは違う、ローマに倣った写実主義が見受けられる。 南方アングロサクソンの芸術家によるミニアチュールは、肌色をいっぱいに塗る手法や金を惜しまず使う装飾など、カロリング朝の画派からの影響を受けた。ウィンチェスター司教の聖エセルワルドの聖別書(英語版)(963年-984年)などでは、一連のミニアチュールが土着の技法で描かれながらも、外部の技術の影響とみられるくすんだ色の顔料で彩色されている。とはいっても彩色の手法自体は、本質的にはやはり土着のものであった。これは人物の扱い方・服の襞をはためかせる傾向などからうかがえる。この技法は改良が加えられ、手足を不自然に強調することが多くなった。ノルマン・コンクエストによって、この土着の画派は姿を消した。 12世紀の美術の目覚めにともない、写本装飾は強い衝撃を受けた。当時の芸術家は描線や飾り文字に優れていたが、ミニアチュールでは、太い輪郭と服の襞の注意深い観察による力強い筆致も特徴のひとつである。芸術家たちは人物描写により習熟し、まだ因習に沿って同じ描写を繰り返し用いる傾向はあったものの、個々の努力によって高貴な人物のミニアチュールが多く生まれた。 ノルマン・コンクエストによってイングランドは大陸美術の中に組み込まれることになった。フランス・イングランド・フランドルの画派は交流を深めて成長し、共通の情熱によって活動した。その結果、12世紀後半以降、北西ヨーロッパで格調高い写本装飾作品が生まれた。 だが、自然の風景についていえば、岩や木といった紋切り型の記号が見受けられる以外はほとんど描かれなかった。12世紀からの数世紀のミニアチュールは、人物をさらに強調した装飾手段となったのである。この流れから、(大抵つや出しされた)金で空白全体埋めてしまう技法が生まれた。ビザンティン画派でも行われていた豪奢な装飾法である。この後の時代にも受け継がれる、神聖視される人物の扱いの定型化も特徴。これらの人物は敬意を示すために古い時代の伝統的なローブを着込んでおり、同じシーンの他の人物は、当時の普通の服を着ている。
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