2003年 - 2004年:政府との交渉開始
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「コロンビア自衛軍連合」の記事における「2003年 - 2004年:政府との交渉開始」の解説
実際に AUC と政府との間で協議が始められたものの殺人の件数が減ることはなかった。停戦表明後、コロンビア政府の大統領アルバロ・ウリベは準軍組織幹部らと組織の解体と元隊員の社会への再統合に向け話し合いを持った。非武装化の過程を完了するための宣言上の期限は2005年12月だった。600人以上の元隊員が現行法下で既に武装解除された。 休戦を宣言し政府との対話に入った(法的にゲリラと準軍組織の双方を含む)如何なる不法武装勢力の隊員も許すと提案した新しい法の枠組みが公式に発表された。主に武装解除が確認されると、見返りとして特定の地理的な領域の中に集合させること、彼らの犯罪活動の犠牲者に対する象徴的な償いなどが宣言された。それに対する多くの議論と論争の後に、さらに改訂された草案がメディアと政界に提示された。この新しい試みはコロンビア議会の承認に向けて正式に提案されたことはなく、この件に関する社会的議論が続いた。 枠組みの別な詳細の中で、提起された各事件を究明する3 - 5人から成る「真相裁判所」の創設が大統領の要求で提示された。集団及び個人が国際人道法を尊重する合意に署名し裁判所の権威を受け入れた後に、不法な武装勢力の活動に関して犯された犯罪の自供、及び犠牲者に対する償いの具体的な行為の完了と引き換えに、最も重大な犯罪で有罪の場合に最低5年 - 10年(一部/実際は殆ど刑務所の外で「服役」が可能)の判決を出すというものであった。 「裁判でだれもの利益が否定されるなら、再考の余地は全くないだろう」とウリベ支持者はみる。合意が得られぬままで、大統領は希望者個人に適用を始めた。「新しい法」は2006年12月31日までしか有効でないとみられている。 ヒューマン・ライツ・ウォッチの広報担当ホセ・ミゲル・ビバンコは大統領の提案の詳細について議論するために開いた公式会見で、提案が一見国際標準に沿ったように思われているが、問題を完全に解決するためにはそれより多くのことが実行される必要があると述べ、非常に批判的な立場を維持している。 これらの努力と対照的に AUC の主な司令官の1人のサルバトーレ・マンクーソは彼が自身(と彼の「戦友」)の潜在的な米国への送還の可能性に反対しており、「刑務所で1日たりとも過ごすこと」を拒否すると公的に表明した。 また、準軍組織の間でも内部闘争が起っており、互いに麻薬取引きで汚れた他の AUC 司令官を起訴し、部隊同士で戦闘に及ぶ例まである。AUC の中のこれらの異なる地域的であり時々戦争している派閥を首尾よく平和的に引導するのはかなり難しい課題である。 2004年5月半ば話合いにより政府が AUC 司令官とその400人の護衛にコルドバ州のサンタフェ・デ・ラリトに142平方マイル (368km2) の安全な避難場所を用意し、OAS の認証の元でさらなる議論が6ヶ月の再開可能な試験的期間中維持された。AUC 司令官がこの保護区域に留まる間彼らは逮捕を免れる。その状態と法的な枠組みの大部分は以前にはるかに大きいで領域で実行された(前大統領アンドレス・パストラナは1998年 - 2002年の和平交渉の間安全な避難所として FARC ゲリラにサン・ビセンテ・デル・カグアンを与えた)ことがあるが、違いがある。 コロンビアの法が保護区域内でも完全に適用されるので、地元の州と警察当局は保護区域を去らない。準軍組織の司令官は保護区域に出入りするためには許可を求める必要があり、政府に任命された検事は(準軍組織以外の)犯罪を調査するためにその中で捜査することができる。
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