1975年の優勝とは? わかりやすく解説

1975年の優勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 15:33 UTC 版)

リック・バリー」の記事における「1975年の優勝」の解説

バリー活躍にも関わらず、1973-74シーズンウォリアーズプレーオフ出場逃していた。そこで1974-75シーズン前にウォリアーズ思い切った行動に出る。10年もの間ウォリアーズ支え続けた、言わばフランチャイズプレーヤーであるネイト・サーモンド放出したのである。さらに中心選手の一人だったカジー・ラッセル放出。新先発センターのクリーフォード・レイはサーモンド級の選手ではなくジェフ・マリンズ衰え見せ始め目ぼしい戦力と言えば新人ジャマール・ウィルクス当時はキール・ウィルクス)くらいであり、ウォリアーズの新シーズン苦戦予想された。ところがそのような状況周囲否定的な評価反骨精神旺盛なウォリアーズエース黙って見ていられるはずもなく、このシーズン30歳となるバリーは再びの絶頂期迎え平均30.6得点5.7リバウンド6.2アシスト2.9スティールフリースロー成功率90.4%を記録得点ランキングではボブ・マカドゥーに次ぐ2位アシストランキングでは6位に入ると共に、スティールランキングとフリースロー成功率両部門で1位に輝いたプレーオフ出場さえ危ぶまれウォリアーズバリー八面六臂活躍と、アル・アットルスの名采配により前年上回る4834敗を記録し、デビジョン1位に輝いた。アットルスは10人の選手ローテーション組み込むことで効果的なオフェンス構築しチーム平均108.5得点リーグ1位となり、9人の選手シーズン通算出場時間1,000分を越えていた。また、アットルスが導入したプレッシャー・ディフェンスもウォリアーズ大きな武器となり、またトレード当初それほど期待されていないかったクリフォード・レイは期待上の活躍見せた新人ウィルクスバリー9年前受賞した新人王輝いたが、MVP級の活躍をしたバリーは、しかしシーズンMVP受賞ボブ・マカドゥー阻まれている。バリー自身リーグ嫌われ者であったことを自覚しており、MVP逃してもあまり気にしなかったという。 第1シード獲得したウォリアーズカンファレンス準決勝相手シアトル・スーパーソニックスを4勝2敗で退けカンファレンス決勝ではジェリー・スローンボブ・ラブ擁する(そして皮肉にもサーモンド移籍先でもある)シカゴ・ブルズ対決。リーグトップのオフェンス力を持つウォリアーズとリーグトップのディフェンス力を持つブルズは、レギュラーシーズン成績も1ゲーム差実力伯仲チーム同士であり、このシリーズでは第7戦までもつれる接戦演じた。このシリーズバリー不調に陥り、勝敗決する第7戦では終盤大事な場面でベンチ下げられてしまったが、ウォリアーズ辛うじてブルズ退け、そしてバリー終了間際にはコート復帰し勝利を引き寄せる幾つかの重要なショット決めた。4勝3敗でブルズ降したウォリアーズは、8年ぶりのファイナル進出決めたウォリアーズ苦戦必至との下馬評覆してファイナル進出果たしたが、彼らの快進撃ここまで思われた。ファイナル待っていた相手ワシントン・ブレッツエルヴィン・ヘイズウェス・アンセルド擁する強豪であり、レギュラーシーズンウォリアーズ圧倒する60勝をあげていた。ウォリアーズレギュラーシーズン中もブレッツ対戦成績を1勝3敗と負け越しており、周囲ウォリアーズファイナル敗退予想するのは当然の帰結と言えた。ところがこのシーズンシンデレラとなったウォリアーズはこの大舞台でも予想外大波乱巻き起こし、この結末はしばしNBAファイナル史上最大番狂わせ評される事になる。ファイナル意外な所から横槍入った会場都合上初戦ホームコートアドバンテージを持つブレッツホーム行い、続く2試合ウォリアーズホームで、続く2試合ブレッツホームで、残りの2試合ウォリアーズブレッツホーム交互に行うという(1-2-2-1-1)、通常のフォーマット(2-2-1-1-1)とは大きく異なスケジュール組まれた。これはシリーズ初戦自身ホーム戦いたいというブレッツ側の申し出により組まれたものだったが、これが彼らにとっては大誤算となる。 彼らの誤算とはワシントンでの第1戦を落としたにあったウォリアーズレギュラーシーズン同様に先発ベンチ総出ブレッツ襲い掛かり、この試合ではフィル・スミス、チャールズ・ダドリー、デレック・ディッキーらが活躍。101-95でウォリアーズ勝利し強烈な先制パンチ浴びたブレッツ建て直し機会与えられないまま、西海岸へと向かう飛行機乗せられのであるカリフォルニアにやってきたブレッツ面々をさらに予想外事態襲った何し誰もウォリアーズファイナル進出するとは予想していなかったため、ウォリアーズホームアリーナであるオークランド・アリーナスケジュール抑えておらず、急遽別の会場用意しなければならなくなった。そこでバリー提案したのが、サンフランシスコ時代ウォリアーズホーム使用していたカウ・パレスだった。若い選手が多いブレッツ選手にとっては未知会場であり、一方彼らがやって来るのを舌なめずりして待っていたのが、サンフランシスコ時代からウォリアーズエースであり、カウ・パレスをコートからリムまでの全て熟知しているリック・バリーだった。バリー相性良かったカウ・パレスでの第2戦を36得点爆発し、92-91でウォリアーズ勝利に導くと、第3戦でも38得点をあげ、109-101でブレッツ打ち破りシリーズ3連勝飾った。ようやくワシントン戻ったブレッツは、ここまで平均35得点という活躍ウォリアーズエース抑えるために第4戦にマイク・リオーダンマッチアップさせた。リオーダンは第1Q中盤ドライブ仕掛けたバリーにハードファウルを見舞った激情家でもあるバリーはこのファウル過剰に反応一触即発雰囲気となったが、バリー前に割って入り、リオーダンに食って掛かったのがアットルスHCだった。アットルスはそのまま退場言い渡されたが、アットルスの機転によりバリー退場という最悪事態避けられ、またアットルスの態度チーム奮起促した序盤に14点のリード許していたウォリアーズ反攻転じワシントンファンブーイング野次晒されるバリーチーム牽引するプレー見せ逆転したウォリアーズは96-95でこの試合勝利。4勝目飾ったことで、ウォリアーズ誰もが予想だにしなかった4戦全勝スイープファイナル制したのであるバリーはこう主張する。「これはNBAファイナル史上最大アップセットだ」。付け加えてお伽話のようなシーズンだった。全てうまくいっていた。死ぬまでの宝物だよ」。バリーファイナルMVP受賞した

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