1975年の優勝
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バリーの活躍にも関わらず、1973-74シーズンのウォリアーズはプレーオフ出場を逃していた。そこで1974-75シーズンを前に、ウォリアーズは思い切った行動に出る。10年もの間ウォリアーズを支え続けた、言わばフランチャイズプレーヤーであるネイト・サーモンドを放出したのである。さらに中心選手の一人だったカジー・ラッセルも放出。新先発センターのクリーフォード・レイはサーモンド級の選手ではなく、ジェフ・マリンズも衰えを見せ始め、目ぼしい戦力と言えば新人のジャマール・ウィルクス(当時はキール・ウィルクス)くらいであり、ウォリアーズの新シーズンは苦戦が予想された。ところがそのような状況と周囲の否定的な評価を反骨精神旺盛なウォリアーズのエースが黙って見ていられるはずもなく、このシーズンに30歳となるバリーは再びの絶頂期を迎え、平均30.6得点5.7リバウンド6.2アシスト2.9スティール、フリースロー成功率90.4%を記録。得点ランキングではボブ・マカドゥーに次ぐ2位、アシストランキングでは6位に入ると共に、スティールランキングとフリースロー成功率両部門で1位に輝いた。プレーオフ出場さえ危ぶまれたウォリアーズはバリーの八面六臂の活躍と、アル・アットルスの名采配により前年を上回る48勝34敗を記録し、デビジョン1位に輝いた。アットルスは10人の選手をローテーションに組み込むことで効果的なオフェンスを構築し、チームの平均108.5得点はリーグ1位となり、9人の選手がシーズン通算出場時間1,000分を越えていた。また、アットルスが導入したプレッシャー・ディフェンスもウォリアーズの大きな武器となり、またトレード当初はそれほど期待されていないかったクリフォード・レイは期待以上の活躍を見せた。新人ウィルクスはバリーが9年前に受賞した新人王に輝いたが、MVP級の活躍をしたバリーは、しかしシーズンMVPの受賞はボブ・マカドゥーに阻まれている。バリーは自身がリーグの嫌われ者であったことを自覚しており、MVPを逃してもあまり気にしなかったという。 第1シードを獲得したウォリアーズはカンファレンス準決勝の相手シアトル・スーパーソニックスを4勝2敗で退け、カンファレンス決勝ではジェリー・スローン、ボブ・ラブを擁する(そして皮肉にもサーモンドの移籍先でもある)シカゴ・ブルズと対決。リーグトップのオフェンス力を持つウォリアーズとリーグトップのディフェンス力を持つブルズは、レギュラーシーズン成績も1ゲーム差の実力伯仲のチーム同士であり、このシリーズでは第7戦までもつれる接戦を演じた。このシリーズでバリーは不調に陥り、勝敗を決する第7戦では終盤の大事な場面でベンチに下げられてしまったが、ウォリアーズは辛うじてブルズを退け、そしてバリーも終了間際にはコートに復帰し、勝利を引き寄せる幾つかの重要なショットを決めた。4勝3敗でブルズを降したウォリアーズは、8年ぶりのファイナル進出を決めた。 ウォリアーズは苦戦必至との下馬評を覆してのファイナル進出を果たしたが、彼らの快進撃もここまでと思われた。ファイナルで待っていた相手、ワシントン・ブレッツはエルヴィン・ヘイズ、ウェス・アンセルド擁する強豪であり、レギュラーシーズンはウォリアーズを圧倒する60勝をあげていた。ウォリアーズはレギュラーシーズン中もブレッツの対戦成績を1勝3敗と負け越しており、周囲がウォリアーズのファイナル敗退を予想するのは当然の帰結と言えた。ところがこのシーズンのシンデレラとなったウォリアーズはこの大舞台でも予想外の大波乱を巻き起こし、この結末はしばしばNBAファイナル史上最大の番狂わせと評される事になる。ファイナルは意外な所から横槍が入った。会場の都合上、初戦をホームコートアドバンテージを持つブレッツのホームで行い、続く2試合をウォリアーズのホームで、続く2試合をブレッツのホームで、残りの2試合をウォリアーズ、ブレッツのホームで交互に行うという(1-2-2-1-1)、通常のフォーマット(2-2-1-1-1)とは大きく異なるスケジュールが組まれた。これはシリーズ初戦を自身のホームで戦いたいというブレッツ側の申し出により組まれたものだったが、これが彼らにとっては大誤算となる。 彼らの誤算とはワシントンでの第1戦を落とした事にあった。ウォリアーズはレギュラーシーズン同様に先発、ベンチ総出でブレッツに襲い掛かり、この試合ではフィル・スミス、チャールズ・ダドリー、デレック・ディッキーらが活躍。101-95でウォリアーズが勝利し、強烈な先制パンチを浴びたブレッツは建て直しの機会を与えられないまま、西海岸へと向かう飛行機に乗せられたのである。カリフォルニアにやってきたブレッツの面々をさらに予想外の事態が襲った。何しろ誰もウォリアーズがファイナルに進出するとは予想していなかったため、ウォリアーズのホームアリーナであるオークランド・アリーナのスケジュールを抑えておらず、急遽別の会場を用意しなければならなくなった。そこでバリーが提案したのが、サンフランシスコ時代のウォリアーズがホームに使用していたカウ・パレスだった。若い選手が多いブレッツの選手にとっては未知の会場であり、一方彼らがやって来るのを舌なめずりして待っていたのが、サンフランシスコ時代からウォリアーズのエースであり、カウ・パレスをコートからリムまでの全てを熟知しているリック・バリーだった。バリーは相性の良かったカウ・パレスでの第2戦を36得点と爆発し、92-91でウォリアーズを勝利に導くと、第3戦でも38得点をあげ、109-101でブレッツを打ち破り、シリーズ3連勝を飾った。ようやくワシントンに戻ったブレッツは、ここまで平均35得点という活躍のウォリアーズのエースを抑えるために第4戦にマイク・リオーダンをマッチアップさせた。リオーダンは第1Q中盤にドライブを仕掛けたバリーにハードファウルを見舞った。激情家でもあるバリーはこのファウルに過剰に反応。一触即発の雰囲気となったが、バリーの前に割って入り、リオーダンに食って掛かったのがアットルスHCだった。アットルスはそのまま退場を言い渡されたが、アットルスの機転によりバリーの退場という最悪の事態は避けられ、またアットルスの態度はチームに奮起を促した。序盤に14点のリードを許していたウォリアーズは反攻に転じ、ワシントンのファンのブーイングと野次に晒されるバリーもチームを牽引するプレーを見せ、逆転したウォリアーズは96-95でこの試合を勝利。4勝目を飾ったことで、ウォリアーズは誰もが予想だにしなかった4戦全勝、スイープでファイナルを制したのである。バリーはこう主張する。「これはNBAファイナル史上最大のアップセットだ」。付け加えて「お伽話のようなシーズンだった。全てがうまくいっていた。死ぬまでの宝物だよ」。バリーはファイナルMVPを受賞した。
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