1965年(昭和40年)~1984年(昭和59年)
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「減反政策」の記事における「1965年(昭和40年)~1984年(昭和59年)」の解説
米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を実際の主食とすることは有史以来の宿願であったが、昭和40年代(1965年-1974年)初頭には、肥料の投入や農業機械や農薬の導入によって、生産技術が向上したこともあり、ようやく米の自給が実現でき名実ともに主食となった。しかし、その時既にアメリカ合衆国の小麦戦略は見事に成功をおさめ、学校のパン給食や栄養改善運動などによって、日本人の食事の欧風化が進行し、米離れに拍車がかかっていた。 そして米の余剰が発生、食糧管理制度は経済状態の悪い家庭にも配慮し、買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であったことから、歳入が不足し赤字が拡大した。国内各地で生産拡大へ向けての基盤整備事業が行われている最中、日本国政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な生産調整を1970年(昭和45年)に開始した。 減反については農家から猛反発を受ける一方、県によっては思いのほか希望者が集まる例も見られた。青森県東北町、六ケ所村、横浜町では割当面積の数倍の減反希望者が現れた。 八郎潟の干拓事業によって誕生した秋田県南秋田郡大潟村の入植は、1967年(昭和42年)に始まったばかりであったが、この年の入植を最後とし、以後の入植者の募集は取り消された。生産拡大のための基盤整備事業が行われている最中の生産調整の導入であり、大潟村の既入植者が生産可能面積の取り扱いを巡って長年にわたり国と対立するなど、稲作農家の意欲低下、経営の悪化につながるとして強い反発が各方面であった。 制度的には「農家の自主的な取組み」という立場を取っているが、転作地には麦、豆、牧草、園芸作物等の作付けを転作奨励金という補助金で推進する一方で、稲作に関する土地改良事業などの一般的な補助金には、配分された転作面積の達成を対象要件とするなど、実質的に義務化された制度である。また、耕作そのものを放棄することは農地の地力低下、荒廃につながることから、転作面積とはみなされない。 生産調整の導入以降も、生産拡大へ向けての基盤整備事業の効果が現れはじめたことや、生産技術が向上したことにより単位面積あたりの生産量は増加し、また農家によっては、米を引き続き栽培するためにやむを得ず転作を受け入れるという立場をとる者もいたが、多くは積極的に転作に取り組むことによって農業構造の転換を図ろうとした。 水稲の作付け面積は、1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も 1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少した。
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