1948 - 1967:中東戦争
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「パレスチナ問題」の記事における「1948 - 1967:中東戦争」の解説
「第一次中東戦争」および「第三次中東戦争」も参照 勝利が予想されたアラブ側は内部分裂によって実力を発揮できず、イスラエルは人口の1%が戦死しながらも列強からの豊富な物資援助により勝利する。1948年の時点でパレスチナの地に住んでいた70〜80万人のアラブ人などが難民となった(いわゆるパレスチナ難民)。パレスチナ人を主とするアラブ人は、「ナクバ(النكبة)」(アラビア語で「大破局」「大災厄」を意味する)と呼ぶ。 パレスチナ難民の発生原因については、当時は、ユダヤ人軍事組織によって追放されたというパレスチナ側の主張とパレスチナ人が自発的に立ち去ったというイスラエル側の主張があった。現在では、イスラエルの政府資料やアメリカの諜報資料が公開され、イスラエル側の主張が虚構であり、大多数のパレスチナ難民は、ユダヤ人軍事組織による大量虐殺(イスラエルの歴史学者のイラン・パッペによれば、総計2千人〜3千人が犠牲になった)、銃器による脅迫、また、ユダヤ人軍事組織による攻撃を恐れて、難民となったことは、学術的に明らかになっている。現在の学術的な争点は、パレスチナ人の追放が計画されたものか、それとも戦闘激化に伴った偶発的なものかという点である。 また、イスラエル建国に伴うアラブ諸国におけるユダヤ人への迫害の増加により、セファルディムなどアラブ諸国のユダヤ人住民40万人がイスラエルに移住し、アラブ諸国に残された財産の大部分は没収された。 1949年2月にエジプトとイスラエルの停戦協定が成立。イスラエルがパレスチナの80%を占領し、残り20%のヨルダン川西岸地区はトランスヨルダンが占領した。エルサレムは旧市街はヨルダンに新市街はイスラエルに占領された。ガザ地区がエジプト領となり、パレスチナ難民が押し寄せた。 イスラエルに残留した非ユダヤ人(パレスチナ人)は、イスラエル国防軍の軍政(占領統治)下に敷かれた。すなわち、イスラエル政府による民政下のユダヤ人と、イスラエル軍による軍政下の非ユダヤ人という、二重体制が敷かれた。非ユダヤ人は参政権など市民権は与えられたが、居住移転の自由や職業選択の自由などを厳しく制限された。 1950年、イスラエルで不在者財産没収法が施行された。これにより、1947年のパレスチナ分割決議から翌年9月までの間に居住地を離れて近隣に避難するなどしたパレスチナ人は家屋・財産を没収されることになった。こうして没収された土地はユダヤ人入植者たちに与えられた(これが下記の難民の帰還権問題に繋がる。イスラエルは、難民であること自体を認めていない)。ヨルダンは占領しているヨルダン川西岸地区の正式併合を宣言する。 1954年、イスラエルで潜入禁止法(英語版)が施行された。これは、パレスチナ難民がイスラエル領に帰還しようとする行為を犯罪化したものである。イスラエルはパレスチナ難民を追い返したが、一部はイスラエルの裁判所で滞在が認められる判決が出た。このため、イスラエルは一律に犯罪化する法律を制定したのである。また、レバノン、エジプト、シリア、サウジアラビア、ヨルダン、イラク、イエメンを敵国指定し、敵国と相互の出入国も同様に規制した。 1956年7月、エジプトがスエズ運河国有化を宣言し、それを阻止するために10月にイスラエル・イギリス・フランスがエジプトに侵攻し、第二次中東戦争(シナイ作戦、スエズ戦争)が勃発した。しかし、アメリカとソ連の即時停戦要求により、イギリス・フランスは11月に戦闘を中止した。アメリカののドワイト・D・アイゼンハワー大統領が経済援助の停止という圧力をかけて、1957年3月にイスラエルをシナイ半島から撤退させた。この戦争により、中東の主導権は英仏から米ソに移った。 1964年5月、パレスチナ解放機構(PLO)が結成された。 1966年、イスラエルのアラブ人(パレスチナ人)住民に対する軍政を終了した。 1967年5月、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領はシナイ半島の兵力を増強し、国連監視軍の撤退を要請し、イスラエル艦船に対するチラン海峡封鎖を宣言した。6月4日にイスラエルはエジプトを奇襲し、第三次中東戦争)が勃発した。イスラエルをアメリカが支援し、アラブ諸国をソ連が支援した。
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