1930年代 - 1960年代半ば
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「リバーサイド教会」の記事における「1930年代 - 1960年代半ば」の解説
リバーサイド教会の竣工により教徒数は着実に増加を続け、1946年5月までに教徒数は3,500人を超えたほか、教会が発行したパンフレットによると「間もなく全ての部屋が週7日使用されるようになり」日曜学校の生徒数も増加した。 リバーサイド教会はコミュニティの象徴となり、モーニングサイド・ハイツの宗教的中心地となった。1939年までに教会の役員数は200人を超え、週に10,000人以上の人々が教会の様々な社会的及び宗教的サービス、スポーツイベント、雇用プログラムなどに参加していた。リバーサイド教会では多くの教徒の訪れる日曜日の朝の礼拝に加えて、毎週第1日曜日の午後に堅信を、それ以降の日曜日の午後には聖歌隊などによる音楽活動を行ったほか、結婚式や葬式なども行っていた。また、若年成人で結成されたリバーサイドギルドは日曜日の夜に礼拝を行った。近隣に位置したアメリカ合衆国海軍予備役士官候補生学校(英語版)は1942年から1945年10月までの間奉仕にリバーサイド教会を使用し、平均して2,000人が参加していた。 1945年6月、フォスディックは翌年5月に牧師を辞任すると発表した。1946年3月、後継の牧師にロバート・ジェームズ・マクラッケンが任命され、同年10月より正式に牧師となった。フォスディックとマクラッケンが互いを尊重していたため引き継ぎは非常にスムーズに行われた。マクラッケンはフォスディックの宗教的自由主義の方針を引き継いで20年間牧師を務めた。1956年に行われた内部調査において、教会の組織構造が整っておらず、ほとんどの役員が誰が自らの上司にあたる人物であるかを把握できていなかった。このため教会は6つの評議会を設立し、助祭と理事会の管轄下に置かれた。評議会は後の牧師アーネスト・T・キャンベルが説明したように、権力を「一連の小さな王国」へ分散した。 1955年、教会南側にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアウィングの建設が開始された。7階建てのウィングは、アレン・アンド・コリンズの後継であるコリンズ・ウィルス・アンド・ベックオーネット社によって設計され、建設費用1,500万ドルはロックフェラーが寄付した。ウィングは1959年12月に竣工した。1959年初頭、15フィート (4.6m) の「ダミー」アンテナを鐘塔上に設置しコロンビア大学のラジオ局WKCR-FM(英語版) (89.9FM) で使用できるかの検討が行われた。これに対し地元住民及び教徒は激しく反対したものの、教会は独自のラジオ局のアンテナを鐘塔に取り付けることを決定した。リバーサイド教会は1961年にWRVR(英語版) (106.7FM) ラジオ局の運用を開始し、1976年まで放送を続けた。1960年、教徒はキリスト連合教会との合併の可否を問う投票を行い可決された。教会の南東にあるユニオン神学校の運動施設ストーン・ジムは1957年にロックフェラーに購入され、5年間の改装工事の後1962年4月に教会の施設として使用が開始された。1967年4月、マクラッケンは健康上の理由から牧師を辞任すると発表した。
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