1930年代 – 1950年代
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「コミュニケーション学」の記事における「1930年代 – 1950年代」の解説
アメリカ合衆国の高等教育や研究において、コミュニケーション学の制度化が始まったのは、コロンビア大学、シカゴ大学、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校など、初期のパイオニアであり、制度化を推進したポール・ラザースフェルド、ハロルド・ラスウェル、ウィルバー・シュラムといった人々が所属していた大学においてであった、としばしば論じられている。 1944年には、ラザースフェルドによって、コロンビア大学に応用社会調査室が創設された。もともとラザースフェルドは、ロックフェラー財団の資金提供を受けて1937年から始めた「ラジオ・プロジェクト」をいくつかの大学などで指導しており、1939年からはコロンビア大学にその事務局を置いていたが、それを継承したのがこの新しい部局であった。「ラジオ・プロジェクト」には、ラザースフェルド自身の他にも、アドルノや、ハドレー・キャントリル、ゴードン・オールポート、後にCBSの社長となるフランク・スタントンらが様々な形で関わっていた。ラザースフェルドと応用社会調査室は相当な量の研究成果を生み出し、様々な共著者たちを得て、書籍のシリーズを刊行し、コミュニケーション学の定義付けを助ける論集を編纂した。その編著の中には、1955年の『パーソナル・インフルエンス』のように、いわゆる「メディア効果論」の伝統の中で現在でも古典となっているものもある。コロンビア大学では、伝統的にコミュニケーション学が社会学と緊密に結びついており、ロバート・キング・マートンなど、社会学プログラムからも応用社会調査室に関わりを持つ者が時折いた。コロンビア大学が、学位を授与する大学院プログラムとしてコミュニケーション専攻を設けたのは、ずっと後の1990年代になってからであるが、このことはコミュニケーションについての数多くの重要な調査が、コミュニケーション学という名称を負った学問の外において実施され続けて来たことを示している。また、この調査室や、ラザースフェルドの調査一般については、時として存在してきたコミュニケーション学とメディア産業との緊密な関係の事例であると見ることもできる。 1940年代以降、シカゴ大学は、いくつかの一時的ながら重要なコミュニケーションに関する委員会の類の拠点となり、そうしたプログラムは何人もの指導的なコミュニケーション学研究者を育てることになった。コロンビア大学における状況とは対照的に、こうしたプログラムははっきりと「コミュニケーション」という名を冠していた。やはりロックフェラー財団から資金を提供されていたコミュニケーションと世論に関する委員会は、ラスウェルに加え、ダグラス・ウェイプルズ、サミュエル・スタウファ、ルイス・ワース、ハーバート・ジョージ・ブルーマーといった面々が参加したが、彼らは皆、それぞれシカゴ大学の別の部局に所属していた。戦時下で連邦政府がコミュニケーションへの関心を高めていく状況の下、彼らは委員会を編成して、基本的には学術・教育の側面で貢献することが目指され、特に戦時情報局とは緊密なつながりをもっていた。コロンビア大学の応用社会調査室にとってメディア産業とのつながりが重要であったのと同じように、シカゴ大学の委員会は、コミュニケーション学と政府の関心や資金援助が結びついていることを思い起こさせるものである。後にシカゴ大学には、ハッチンス委員会(プレスの自由委員会)や、コミュニケーション委員会(1947年 - 1960年)の組織的本拠が置かれることになった。後者は学位を授与するプログラムとなり、その教授陣には、 エリユ・カッツ、バーナード・ベレルソン、エドワード・シルズ、デイヴィッド・リースマンらが名を連ね、その出身者にはハーバート・J・ガンズやマイケル・グレヴィッチ(Michael Gurevitch)らがいた。委員会は、ベレルソンとモリス・ジャノウィッツの『Public Opinion and Communication (世論とコミュニケーション)』(1950年)のような書籍や、学術誌『Studies in Public Communication』を発行した。 1947年、戦後のアメリカ合衆国におけるコミュニケーション学制度化の鍵を握る人物となったウィルバー・シュラムによって、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校にコミュニケーション調査研究所が創設された。シカゴ大学のいろいろな委員会と同じように、イリノイ大学のプログラムも「コミュニケーション」の名を冠し、大学院の学位を授与した。シュラムは、社会科学から影響を受けていたコロンビア大学やシカゴ大学の研究者たちとは異なり、英文学出身で、既存のスピーチ・コミュニケーション、修辞学、さらにはジャーナリズムのプログラムをコミュニケーションの傘下に統合しながらコミュニケーション学を発展させてきていた。シュラムは『マス コミュニケーション過程と効果 (The Process and Effects of Mass Communication)』(1954年)という教科書を編集し、その中で、ラザースフェルド、ラスウェル、カール・ホブランド、クルト・レヴィンらを、コミュニケーション学の創業の父たちと位置づけ、この分野の定義づけの助けとなった。シュラムはまた、コミュニケーション学のためのいくつかのマニフェストも作成しており、そのひとつが1963年の『The Science of Human Communication (人間コミュニケーションの科学)』であった。シュラムと研究所は、1955年にスタンフォード大学へ移った。シュラムの門下生からは、エヴェリット・ロジャースのように重要な成果を上げるようになった者も数多く出た。
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