1930年代――西洋との最初の接触
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「メヘル・バーバー」の記事における「1930年代――西洋との最初の接触」の解説
1930年代にメヘル・ババは、広範に渡る世界旅行を開始した。その中には、数回に渡るヨーロッパとアメリカ合衆国への旅行を含んでいる。ババが最初の西洋の弟子たちの親しいグループと接触を確立したのはこの時期であった。彼は、ペルシャのパスポートで旅をした。理由は、この頃は話すだけでなく、書くことも断念していたので、インドの英国政府によって要求される書式に署名をしたくなかったからだ。 1931年の英国への最初の旅で、彼は「ラージプタナ」という船で旅をしたが、この同じ船にマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)が乗船していた。ガンディーは、ロンドンでの第2回目の円卓会議へ向けて航海していた。ババとガンディーは船上で3回会談した。そのうち1回は、3時間にも及ぶものであった。英国の新聞はこれらの会談を特集した。だが、ガンディの秘書は『新聞は、ガンディがメヘル・ババに援助も、霊的アドバイスも、その他のアドバイスも決して求めなかったと強く書くべきだ。』と言った。 1932年5月20日にババは、ニューヨークに到着し、1000単語に及ぶメッセージを記者クラブに提供した。その内容は、ババの信者であるクエンティン・トッド(Quentin Tod)によってババの『アメリカへのメッセージ』として書かれている。その文章の中で、ババは自分は“全てのものの無限の源泉を持っている者”だと宣言し、自身の沈黙を破る意図も宣言している。『私が沈黙を破るときに、私の本来のメッセージが世界中に配信され、そのメッセージは受け入れられねばならないだろう。』インドと英国の政治的状況に関しては、彼は全くコメントしなかったが、彼の信者たちは、ババがガンディに政治を放棄するように告げたと説明していた。 西洋で、メヘル・ババは沢山の有名人や芸術家と会った。その中にはゲイリー・クーパー、チャールズ・ロートン、タルラー・バンクヘッド、ボリス・カーロフ、トム・ミックス(Tom Mix)、モーリス・シュヴァリエ、エルンスト・ルビッチやその他の人々が含まれている。1932年6月1日に、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクス・ジュニアが、ピックフェイア(Pickfair)でババのためのレセプションを開催した。そこでは、ババはハリウッドへのメッセージを配布した。結果として、メヘル・ババは、『30年代の様々な情熱の一つ』として登場した。 1934年にハリウッド・ボウルで自らに課した沈黙破りを行うつもりだと宣言した後に、ババは予定を突然変更して、エンプレス・オブ・カナダという船に乗って、説明もなくホンコンへと旅立ってしまった。新聞連合会は、『ババは、「状況が熟していない」という理由で沈黙破りを来年の2月まで決定した』と伝えた。 1930年代の後半に、メヘル・ババは、西洋人の女性グループをインドへ招待した。そこでは、ババはインドとセイロン(現在のスリランカ)を縦断する一連の旅をアレンジした。その旅は、ブルーバスツアー(Blue Bus Tours)として知られている。彼らが帰国した時には、多くの新聞が彼らの旅をスキャンダルの機会だと捉えていた。1936年のタイムマガジンの総編集に、〈神は私の冒険である〉というババの言葉を引用して、4年前の『長い髪の絹のようなペルシャ人、シリ・サッドガル・メヘル・ババ(Shri Sadgaru Meher Baba)』に対する合衆国の熱狂ぶりを揶揄しながら報じています。
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