15世紀から17世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 16:03 UTC 版)
「古代エジプト文字の解読」の記事における「15世紀から17世紀」の解説
ルネサンスの間、ヨーロッパの人々はヒエログリフに興味を持つようになり、1422年頃Cristoforo Buondelmontiがギリシアでホラポロの『ヒエログリュピカ』の写しを発見し、それがニッコロ・ニッコリやポッジョ・ブラッチョリーニなどの好古家の目に留まるようになった。ポッジョはローマ時代にヨーロッパに輸入されたオベリスクやその他のエジプトの工芸品にヒエログリフのテキストがあることは認識していたが解読しようとはしなかった。ホラポロとプロティノスの影響を受け、彼らはヒエログリフを話し言葉を記録する手段ではなく普遍的で像に基づいたコミュニケーション形態とみなしていた。この考えから、ホラポロに記述されたイメージにゆるく基づくぼんやりとした象徴主義を用いるルネサンスの芸術的伝統が生まれ、Francesco Colonnaの1499年の本『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』が開拓した。 ヨーロッパ人はコプト語も知らなかった。ヨーロッパの学者はコプト語の写本を手に入れることはあったものの、16世紀にこの言語を真剣に研究し始めたとき、これを読む能力はおそらくコプトの修道士に限られており、エジプトから出なかったこれらの修道士の1人から学ぶ機会を得ている当時のヨーロッパ人はいなかった。また、学者たちはコプト語が古代エジプト人の言語に由来しているかどうか確信をしておらず、多くの人が古代近東の他の言語に関連していると考えていた。 コプト語を理解した最初のヨーロッパ人は、17世紀半ばのイエズス会司祭で博学者のアタナシウス・キルヒャーであった。キルヒャーは、イタリア人旅行者Pietro Della Valleがエジプトで習得したアラビア語の文法と辞書の研究に基づき、欠陥はあるものの先駆的なこの言語の解釈と文法を1630年代、40年代に作成した。彼はコプト語は古代エジプト人の言語に由来すると予測した。この主題に関する彼の任務は究極の目標であるヒエログリフの解読の準備であった。 エジプト学の標準的な人名辞典によると、「キルヒャーはおそらく不当に、エジプトのヒエログリフ解読の物語において、不合理で空想的な全てのものの象徴であった」。キルヒャーは、エジプト人はキリスト教より前にありその前兆となった古代の神学的伝統を信じていたと考え、ヒエログリフを通してこの伝統を理解したいと考えた。前の時代ルネサンス時代の者と同様、ヒエログリフは言語というよりは抽象的な形のコミュニケーションであると考えていた。このようなコミュニケーションのシステムを自己矛盾なく解釈するのは不可能であった。それゆえOedipus Aegyptiacus (1652–1655)などのヒエログリフに関する作品で、自分が読んだコプト語のテキストやエジプト由来の伝統を含んでいると考えた古代のテキストから導き出された古代エジプトの信仰への理解に基づき推論を進めた。彼の解釈により、少数のヒエログリフのみ含む短文は秘儀的な考えの長文へ姿を変えた。初期のヨーロッパの学者とは異なり、キルヒャーはヒエログリフが表音的に機能する可能性があることを認識していたが、この機能は後期の発展と考えていた。また彼はあるヒエログリフ 𓈗 が水を表し、よってコプト語で水 mu やmの音を表すことを認識していた。彼はヒエログリフの音価を正しく認識した初のヨーロッパ人であった。 キルヒャーの基本的な仮定は同時代の人々により共有されていたが、ほとんどの学者は彼の解釈を否定しあざ笑う者までいた。こうはあったものの、コプト語は古代エジプトの言語から派生したという議論は広く受け入れられた。
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