エジプト学の標準的な人名辞典によると、「キルヒャーはおそらく不当に、エジプトのヒエログリフ解読の物語において、不合理で空想的な全てのものの象徴であった」[29]。キルヒャーは、エジプト人はキリスト教より前にありその前兆となった古代の神学的伝統を信じていたと考え、ヒエログリフを通してこの伝統を理解したいと考えた[30]。前の時代ルネサンス時代の者と同様、ヒエログリフは言語というよりは抽象的な形のコミュニケーションであると考えていた。このようなコミュニケーションのシステムを自己矛盾なく解釈するのは不可能であった[31]。それゆえOedipus Aegyptiacus(英語版) (1652–1655)などのヒエログリフに関する作品で、自分が読んだコプト語のテキストやエジプト由来の伝統を含んでいると考えた古代のテキストから導き出された古代エジプトの信仰への理解に基づき推論を進めた[32]。彼の解釈により、少数のヒエログリフのみ含む短文は秘儀的な考えの長文へ姿を変えた[33]。初期のヨーロッパの学者とは異なり、キルヒャーはヒエログリフが表音的に機能する可能性があることを認識していたが[34]、この機能は後期の発展と考えていた[33]。また彼はあるヒエログリフ 𓈗 が水を表し、よってコプト語で水 mu や m の音を表すことを認識していた。彼はヒエログリフの音価を正しく認識した初のヨーロッパ人であった[35]。
18世紀後半にコプト語を最もよく知る学者であったゲオルグ・ツェーガ(英語版)は、古代エジプトに関する知識の大要である De origine et usu obeliscorum (1797) においてヒエログリフに関するいくつかの洞察を行った。彼はヒエログリフの文字を分類し、1つの単語を表すにはそれぞれの文字が少なすぎるため、完全な語彙を作り出すには各々が複数の意味をもっているか互いに組み合わさって意味を変える必要があると結論付けた。文字が向いている方向が文を読む方向を示していることを確認し、いくつかの文字が表音文字であることを示唆した。ツェーガは文を解読しようとはせず、これを達成するためには当時のヨーロッパで得られるものよりも多くの証拠が必要と考えていた[46]。
シャンポリオンは1823年4月にこれらの発見を碑文院アカデミー(Académie des Inscriptions)に発表した。そこから急速に新たな文字や単語の発見に取り組んだ[92]。表音記号は母音がたまにしか書かれない子音アルファベットを構成するという結論を出した[93]。1824年に『古代エジプト語象形文字法要論(Précis du système hiéroglyphique、以下『要論』)』で発表された研究結果の要約では次のように述べられている。「ヒエログリフの書記体系は複雑なシステムであり、一度に同じテキスト同じ文章で比喩的、記号的、表音的な文字であり、まったく同じ単語を使っているかもしれない」。『要論』では何百ものヒエログリフを特定し、ヒエログリフと他の文字の違いを記述し、固有名詞とカルトゥーシュの使用を分析し、言語の文法の一部を説明した。シャンポリオンは文の解読から根底にある言語の翻訳に進んでいた[94][95]。
1823年、ヤングは自身のエジプト研究についての著書An Account of Some Recent Discoveries in Hieroglyphical Literature and Egyptian Antiquitiesを出版し、副題"Including the Author's Original Hieroglyphic Alphabet, As Extended by Mr Champollion"(著者のオリジナルのヒエログリフのアルファベットを含む。シャンポリオン氏により拡張されたように)でシャンポリオンの軽視に応えた。シャンポリオンはこれに怒り、「私が自分のアルファベット以外のアルファベットを認めることに同意することは決してなく、適切に呼ばれるヒエログリフのアルファベットの問題である」と反論した[97]。翌年の『要論』ではヤングの研究を認めたが、その中でシャンポリオンはヤングのブリタニカの記事を見ずに独立に結論に達したと述べた。これ以来、シャンポリオンが正しいことを言っていたか否かについての意見は分かれている[100]。ヤングはシャンポリオンの研究への賞賛といくつかの結論に対する懐疑が混ざった表現をしながらもより大きな評価を求め続けた[101]。2人の関係は1829年にヤングが死去するまで友好的なものから対立的なものまで様々に変化していた[102][103]
ヤングのヒエログリフの研究は1820年代に衰退したが、デモティックの研究は偶然の発見に助けられて続いた。1822年11月、知人のジョージ・フランシス・グレイ(George Francis Grey)がエジプトで見つかったギリシアのパピルスの箱をヤングに貸した。ヤングはそれを調べると2つが彼がすでに持っており解読しようとしていたデモティックのテキストであることが分かった。長い間、ロゼッタストーンを補完する第2の二か国語のテキストを取得しようとしていた。これらのテキストを手にし、その後数年間で大きな進歩を生んだ。1820年代半ばには他のことに関心がいっていたが、1827年にイタリアのコプト語学者アメデオ・ペイロン(Amedeo Peyron)からの手紙に刺激を受けた。この手紙ではヤングのある主題から別の主題へと動く癖が業績を上げるのを妨げ、古代エジプトに集中すればもっと多くのことを成し遂げることができると示唆した。ヤングは人生の最後の2年間をデモティックに費やした。あるとき、当時ルーブルの学芸員だったシャンポリオンに相談したところ、シャンポリオンは友好的に接し、デモティックに関するメモを見せ、ルーブルのコレクションにあるデモティックのテキストを何時間も見せてくれた[109]。ヤングのRudiments of an Egyptian Dictionary in the Ancient Enchorial Characterは彼の死後1831年に出版された。この中には1つのテキストとロゼッタストーンのテキストの大部分の全訳が含まれていた。エジプト学者ジョン・レイ(John Ray)によると、ヤングは「おそらくデモティックの解読者として知られるに値する」[110]。
シャンポリオン=フィジャックが1836年から1843年にかけて弟の『エジプト語文法(フランス語版)』とそれに付随する辞書を分けて出版した。いずれも不完全なものであり、特に辞書は混乱を招くような構成であり、多くの推測による翻訳が含まれていた[120]。これらの著作の欠陥は、シャンポリオンの死後におけるエジプト語の不完全な理解状態を反映していた[121]。シャンポリオンは古典エジプト語とコプト語の類似性を過大評価することでしばしば道を外れた。グリフィスが1992年に述べたところでは「実際にはコプト語はラテン語からのフランス語のように離れた派生語である。したがって場合によってはシャンポリオンの仮の写本は良いコプト語を生成したが、ほとんどの場合それらは無意味であり不可能であった。句を複写するときにコプト語のシンタックスが絶望的に違反されるか、ヒエログリフの単語の順序を逆にする必要があった。これは全て非常に不可解で誤解を招くものであった」[122]。また、シャンポリオンは記号が1つだけでなく、2つ、3つの子音を綴ることも認識していなかった。代わりに全ての発音記号が1つの音を表し、各音に非常に多くの同音異義語があると考えた。よって、ラムセスとトトメスのカルトゥーシュの中央の記号はバイリテラル(2文字の子音を表す)で、子音の並び ms を表しているが、シャンポリオンはこれを m と読んだ。また、「音声補完」として知られる概念に触れたこともなかった。この音声補完は、単語の終わりに追加されたユニリテラル(1文字の子音を表す)の記号はすでに別の方法で書き出された音を綴りなおすというものである[123]。
シャンポリオンの著作の最も根本的な欠点を修正した学者は、シャンポリオンの文法を用いてエジプト語の研究を始めたプロイセンの言語学者カール・リヒャルト・レプシウスであった。彼はロッセリーニと親交を深め、言語についてロッセリーニと連絡を取り合うようになった[127]。1837年に出版されたレプシウスのLettre à M. le Professeur H. ロッセリーニ sur l'Alphabet hiéroglyphiqueではバイリテラル記号、トリリテラル記号や音声補完の機能を説明しているが、これらの用語はまだ造語されていない。ここには30のユニリテラル記号が記載されている(シャンポリオンのシステムでは200以上で、現在のヒエログリフの理解では24である)[128]。レプシウスの書簡はシャンポリオンのヒエログリフに対する一般的なアプローチの不備を修正しながらもその主張を大幅に強化し、エジプト学の焦点を解読から翻訳に決定的に動かした[129]。シャンポリオン、ロッセリーニおよびレプシウスはしばしばエジプト学の創始者と考えられており、ここにヤングが含まれることもある[123]。
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