シャンポリオンの晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 16:03 UTC 版)
「古代エジプト文字の解読」の記事における「シャンポリオンの晩年」の解説
1824年までには限られたヒエログリフのテキストしか持たないロゼッタストーンはヒエログリフの研究を進める上で無意味なものになっていた。シャンポリオンはさらなるテキストを必要としていたが、フランスではほとんど入手できなかった。1824年から1826年にかけてシャンポリオンは2度イタリアを訪れ、そこでエジプトの古美術品、特に当時エジプトからトリノのエジプト博物館に運ばれたものを研究した。何十もの像や石碑に刻まれた碑文を読み解くことで、間違っていることもあったが、これらを依頼した王を数世紀ぶりに特定した。また、博物館のパピルスにも目を通し、その主題を見分けることができた。特に興味を持ったのはトリノ王名表であり、これは紀元前13世紀までのエジプトの支配者とその治世の長さをリストアップしたパピルスである。これは最終的にはエジプト史の年表の枠組みを提供することになるが、シャンポリオンが見たときはバラバラであった。イタリア滞在中、シャンポリオンはピサの言語学者Ippolito Roselliniと親交を深め、Roselliniはシャンポリオンの古代エジプトへの情熱に感銘を受け、共同研究を始めた。また、シャンポリオンはのちにヤングに見せることになるテキスト含む、ルーブル美術館でエジプトの古美術品のコレクションを集める作業にも取り組んだ。1827年、直近の発見の一部を盛り込んだPrécisの改訂版を出版した。 エジプトに住んでいた好古家、特にJohn Gardner Wilkinsonはすでにシャンポリオンの発見をエジプトのテキストに適用していた。シャンポリオンとRoselliniは自らもそうしたいと考え、他の学者や芸術家とともにエジプトへのフランコ・トスカーナ遠征隊を結成した。エジプトへ向かう途中、シャンポリオンはフランスの古物商の手にあるパピルスを見ようと立ち止まった。それはアメンエムハト1世から息子と後継者への死後の助言として作られた知恵の書である『アメンエムハト1世の教訓(英語版)』の写しであった。シャンポリオンはそれが何であるかを完全に理解するほど十分に読むことができなかったが、読まれた最初の古代エジプト文学の作品となった。1828年と1829年には、探検隊はエジプトのナイル川のコースを旅し、古物を写したり収集したりした。無数のテキストを研究した後、シャンポリオンは自身のシステムがエジプトの歴史のあらゆる時代のヒエログリフのテキストに適用可能であることを確信し、その間に「決定的な」という言葉を造語したようである。 エジプトから帰国後、シャンポリオンはエジプト語の完全な記述に多くの時間を費やしたが、それを完成させるための時間はほとんど残っていなかった。1831年の終わりからますます衰弱し脳卒中を患い、1832年3月に死去した。
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