14世紀から15世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 09:10 UTC 版)
「リムブルク・アン・デア・ラーン」の記事における「14世紀から15世紀」の解説
1304年に初めてゲオルク参事会の付属神学校の存在が証明されている。後の史料では参事会学校は現在の聖堂とミヒャエル礼拝堂との間にあったとされている。ここには参事会付属神学校の他に小さなラテン語学校も入居していた。ノネンマウアーの女学校は、1484年以前には存在していなかった。 度重なる洪水災害のため、ヴィルヘルミーテン修道院は1317年にディーツ門前のフォアシュタットに移転した。さらにプレモントレ会(ドイツ語版、英語版)アルンシュタイン修道院やシトー会エーバーバッハ修道院(エアバッハー・ホーフ)も立派な建物を有した。ベギン会は、遅くとも1341年に自前の建物を有していたが、1417年に最後の記録がなされている。ロスマルクトと城山南西の2つのフォアシュタットは、1225年から1230年に、間の市壁(現在のグラーベン通り)が建設されたことで防衛施設内に取り込まれた。14世紀半ばまでにさらに3つのフォアシュタットが建設された。ラーン川右岸に位置し現在もその名で呼ばれているブリュックフォアシュタット、ハンマー門前のフランクフルター・フォアシュタット、現在のノイマルクト付近の集落がそれであった。これらのフォアシュタットや、壁の前に位置する村落は、1450年の少し前に門や塔のある壁が設けられた堀で囲まれた。この防塁は本来の市壁の遙か前方、現在のシーデの街道筋あたりに伸びていた。フォアシュタットの住民はエリート商人と比べ、市の事業に関与することができず、初めは市議会に代表を立てることもできなかった。それにもかかわらず彼らは自治体の経済的負担を担わなければならなかった。1458年になって2人の議員をたてることが許された。この頃城山は、元来の城や修道院の他に下級貴族家の屋敷を含む附属建築物で建て込んでいた。 1315年と1346年に、おそらく2つの工期に分けて、石造のラーン川の橋が建造された。遅くともこの石造の橋建設によってブリュッケンフォアシュタット(元はノイシュタットと呼ばれた)が建設された。最初の大きな建築工事は、施療教会を含む旧診療所であった(1310年以前)。シトー会マリエンシュタット修道院は館を建設するために1340年から4軒の家屋を購入した。1359年以前にブリュッケンフォアシュタットは堀と土塁で護られた。ここには、コイヒャー門、ディートキルヒャー門、ハーネン門の3つの門が設けられた。同様の施設はすでに1343年/1344年に、ラーン川左岸のフォアシュタットを護るために建設されていた。 皇帝ルートヴィヒ4世は、1336年にこの街のユダヤ人保護権の所有者がリムブルクの領主であることを認めた。早くもその1年後にユダヤ人たちはこの街から追放された。ユダヤ人は、1341年に王の命令により再びこの街に住むことができるようになった。しかし定住は住民たちの抵抗に遭い、短い期間で終わった。1349年には再びユダヤ人に対する排斥が起こり、この街から追放された。この追放に伴い、エアバッハー・ホーフ近くにあったミクワーやユダヤの礼拝施設が廃止され、修道院に売却された。14世紀後半にはユダヤ人が住んでいたが、その範囲はコルンマルクトのゲットーに制限されていた。ここには初めて記録されたシナゴーグがあり、新たなミクワーが設けられた。 1344年に本市は、その半分がトリーア選帝侯に質入れされた。このできごとは、リムブルク家が次第に衰退していったことを示している。この頃には、リムブルク家はリムベルク市民からも相当額の借金をしていた。1342年に起きた新たな都市火災(最初の火災よりも範囲は広くなかった)やペスト(1349年、1356年、1365年)、とりわけ領邦君主の台頭により貴族家は衰退していった。これと関連して、この街は次第に局地的なフェーデに巻き込まれていった。本市は、1359年にはトリーア選帝侯によるフィルマー征服に、1360年にグレーテンシュタイン城の破壊に参加した。1372年10月にリムブルク軍は、その2年前に都市権を獲得したばかりのエラーを破壊した。この街に盗賊クレーとブッセが滞在しているというのがその理由付けに使われた。カッツェンエルンボーゲン伯の尽力により、リムブルク市は最高宮廷裁判所から2000マルクの賠償金を支払うよう宣告された。しかしリムブルクはフランクフルト市の裁判管轄下にあったため、この判決は執行されなかった。1380年にシュタッフェル領主家がリムブルクを攻撃し、ブリュッケンフォアシュタットの20軒の家屋がシュタッフェル軍によって焼き払われた。おそらく1399年の後すぐにフィッシュマルクトに市庁舎(現在は「歴史的市庁舎」と呼ばれている)が建設された。 1406年のヨハン2世の死によってリムブルク家の最後の男系後継者が断絶した。市と街はすでに半分がトリーア大司教に質入れされており、1380年に本市に関する帝国レーエンの領主権を譲り受けたため、大司教は領主権全体を獲得した。1420年に全域がトリーア選帝侯の所有となった。 トリーア選帝侯はリムブルクの半分を騎士のフランク・フォン・クロンベルクに質入れしたが、この共同統治者はリムブルク市民に嫌われており、紛争が起こった。このためクロンベルクはこの質草を1435年にヘッセン方伯ルートヴィヒ1世(ドイツ語版、英語版)に譲渡した。この所有地はさらに細分化された後、1482年から再びヘッセン方伯とトリーア選帝侯だけで分割された。 中世には毛織物と布の取引がリムブルクの主要な経済分野であった。さらに小さな都市領域内でブドウ栽培が集中的に営まれた。しかし1600年までにはこの経済分野は衰退した。三十年戦争の間に市域におけるブドウ栽培は完全に消滅した。
※この「14世紀から15世紀」の解説は、「リムブルク・アン・デア・ラーン」の解説の一部です。
「14世紀から15世紀」を含む「リムブルク・アン・デア・ラーン」の記事については、「リムブルク・アン・デア・ラーン」の概要を参照ください。
- 14世紀から15世紀のページへのリンク